Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

依存性・獣性・幼児性

 今日はいろいろと思い煩うことが多かった。私は何処まで行っても俗人俗物なんだと実感した。問わずして知ることを直観と言うのならば、この認識こそ私の真なる直観である。己の知力と体力は限界まで鍛えることが理論的に可能である。しかし精神の力は鍛えることが原理的に出来ない。なぜなら、私の中に聖人君子の精神性が 内在 していないからである。それは自分が一番よく知っている筈だ。自然に振舞おうとすれば自分の悪意や狡さや企みや卑怯さが前景化する。こうやって自分が不完全であることを知れば知るほど、救いが殆ど見えないことに気付く。私にとっての感性、理性、知性の追究とは即ち、依存性、獣性、幼児性が内在している事実を先ず認めることだ。私は自分が依存体質であり、獣に早変わりすることもあり、幼児の様に責任逃れをする傾向が確実にあることを認めざるを得ない。聖書や仏典や経典を読んだからと言って、その傾向性が削ぎ落とされる訳では無いのだ。原罪意識ではない、現実意識である。現実 そうである のだから、また過去に於いても そうであった のだから、未来に於いても そうであろう と推測するだけである。この推測が十中八九当っているのは、それでも好しと開き直っているからだ。明日の朝には、もうあの忌まわしい「ポジティブ・シンキング」なる幻想に憑りつかれるに決まっている。私は「私であること」の苦痛に耐えることが出来ないのだ!不安から言葉や論理に依存し、不安が無くなれば獣に戻り、危機に於いては幼児に逆戻りする。昔から私は投げ遣りな性格だったそうだ。これも生涯、めったなこと が無い限り 変わることは無いだろう。(この文章からも如何に自分が依存体質であるのかが分る)現実に根差した直観はいつも正しいし、空想に根差した直観はいつも間違っている。当たり前のことだが、忘れがちだ。現実と格闘することを忘れてはならない。

 最後に、もしも私がそれでもまだ聖人君子に憧れを抱くのならば、私は絶え間なく自らに問いかけるべきだ。お前は今、何者かに依存をしているか?お前は今、獣になっていないか、もしくはその獣を正しく飼い慣らせているか?お前は今、責任逃れしていないか?幼児のように甘えた行為を、たとえ無意識レベルに於いて仕方なく選択したとしても、意志の力でそれに対抗し、足掻いているか?嫌だ!と叫んでいるか?私に残されたのは、自らへの問い掛けと抵抗だけである。大衆的な自分への反逆。オルテガ風に言えばそうなるんだろうと思う。