Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

情報とはカロリーである

 情報についてよく考える。私は一日で一体どれ位の情報に接しているのか。人間とは一本の土管である。通過点、ないし交差点に過ぎない。もしも情報が水ならば、私は水が流れる用水路である。ポジティブ・シンキングとは、上水道である。ネガティブ・シンキングとは下水道である。安泰した性格とは、春うららの穏やかな小川である。破滅的で幻想的な人生とはバミューダトライアングルに囲まれた異次に繋がる荒波である。要するにだ。私は旅人ではないし、船乗りでもない。通路(channel)に過ぎないのだ。キャッチャー・イン・ザ・ライホールデンの気持ちが今になって分かる。私は河口堰になりたいのだろう。

 情報とはなんだろう。私が日々接する情報は、五感を通って私の内部に侵入する。そして、指先の神経細胞や口角筋の運動となって画面上の文字になったり、空気の振動として音声になり、私の外部へ漏れ出る。他者の五感を通じて初めて、情報として認識され、解釈され、是々非々を判断される。または情報を求めて、書いたり話したりする。内部を空っぽにすると、浸透圧の原理よろしく、向こうから勝手に内部へと情報が満たされる。それは均衡を求める自然の原理であると同時に、コミュニケーションが自然に成立する原理でもあるのだろうか。つまり、聞くばっかりだと気持ち悪くなるのかも知れない。聞けば話したくなるし読めば書きたくなる。情報が入力されたら、アウトプットまで自動的に処理されるように人間は設計されているのだろう。

 読書と論文は、食事と運動の関係と似ている。情報なしに生きることは出来まい。それはカロリー(熱量)を摂取することなしに生きることは出来ないのと等しい。情報を摂取し続けて頭でっかちになるのは、運動しないのと同じく、消化不良を起こしているのだろう。脳と消化器官の運動が等しい筈はないのだが、レトリックにおいて、両者は繋がる。つまり、よく噛んで食べることや、バランスの取れた食事、腹ごなしの散歩をすれば、消化器官や出口を傷めないで済む。

 食べ物の出口について、私達は話したがらない。それは忌避されている。では、情報の出口は何だろうか。それこそ、論文じゃないのだろうか。頭を纏める為には、書き手にならねばなるまい。そうか、論文を書くとは、トイレに行くことだ。トイレに行くとは論文を書くことだ。直喩ではなく、本当に、実際にトイレで論文を書いてみたらいい。学問の神様とはトイレの神様である。排泄物としての論文と言うとグロテスクだが、現実問題、そうであるから仕方ない。

 論文を書きたくないのは、つまり、まだ書くほど調べていない証である。論文を書く前に論文を読まねばならない。論文を読もう。読んでるうちにソワソワしてきてトイレに駆け込むように論文が書きたくなるはずだ。