Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。Peace.

誠の精神・空の精神

 何事かを直観し感受する。それに従って知力と体力を集中させ、一先ずのケリを付ける。出来上がったものを他者に見せる。誤解や誤認が浮き彫りになる。指摘されてハタと気付く。それは新たな直観である。その循環の中で、己の精神力が鍛えられる。己の精神力が高まるとは即ち、真にobjective(客観的)になるという事だ。

 客観的になることは善でも悪でもない。強いて言えば、美醜の問題である。恥じらいを感じるとは、即ち、客観的になることの表れだ。アダムが知恵の林檎を食べて恥じらいを覚えた逸話の様に、人は知恵を身につけると、今迄の己を一気に振り返って、なんて自分は馬鹿だったのかと分かる。それ迄の自分とこれからの自分は違う筈だと宣言するために、衣装を変えたり、言葉遣いを変えたり、立ち振舞が変わったりするのだろう。

 objectivity(客観性、中立性、正確性、または存在を絶対に意識の対象・客体として観察する傾向)を身に着けたとしても、感性はどうだろうか。感性とはsensibilityの訳語であるが、感じ取るのは必ずしも芸術的な造形だけに留まらない。感性が豊かであるとは、生きづらさを引き受ける勇気や覚悟を持っているという事でもある。繊細さな人間は、己が繊細であることを十二分に理解している。(これは、大胆な人間が、自己反省しないのとは逆である。)繊細さを大胆さに変えることで、本来の自分の良さまでも消してしまうだろうと予測しているからこそ、この繊細さと付き合っていこうと覚悟しているのだ。だからこそ、繊細な人間は年を取れば取るほどに、その目が鋭く、深みを帯びてくる。(大胆な人間は、年を取れば取るほどに、その目が穏やかに淡い色を帯びてくるのと対照的だ)つまり、繊細さとは真の主観性の同義語である。

 美醜の感覚が真の客観性を持つに至り、生きづらさの感覚が真の主観性を持つに至る。両者を上手にバランスを取りながら、主客合一を目指すのが、「中庸」の精神であり、その言葉の裏には、「無の思想」が張り付いている。前者は自己の精神の有り様が主客一致した状態であり、後者は自己が主客の視点から完全に超越した状態である。単純化して言えば、中庸の目指す所は人格の完成であり、無の思想の目指す所は悟りの到達である。

 人格は完成せず、悟りは開けないのだろうか。多くの人は言う。不可能である、と。実質不可能だとしても、しかしながら、一度や二度は挑戦してみる価値はあるだろう。理想に囚われては元も子もないが、私は私を試したいと思う。真の客観性と真の主観性を求めたい。これは、即ち、誠の精神と空の精神の両立を求める試みである。人格を高めたいと同時に、人格を捨てたい。矛盾を抱えながらも生きて行きたい。