Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

努力の人、呉智英

 呉智英さんの『バカにつける薬』(双葉文庫、1996年)を買って、今朝パラパラと読んで見た。呉さんの人となりが、ぼんやりと分ったような気がした。呉さんは真面目だと思った。言葉に戸惑いや迷いがない。迷った時には、辞書や辞典や百科事典を引くからだ。それは誠実な姿勢の表れだ。語る前に、調べるのをモットーにしているのが分る。馬鹿を馬鹿にする為には、先ず自分が馬鹿にならないための最大限の努力を惜しまない。文庫・新書を好んで読んだり、図書館を頻繁に利用するのも、馬鹿にならない為の工夫である。必要は発明の母と云うが、呉さんの文章を眺めていると、工夫と発明が随所に見られて面白い。

 

 ・・・しかし、時代の生命力が尽きかけていようといまいと、人間は個々の場面で現実的に生きていかなければならない。そこでは、こけおどしの権威主義など何の役にも立たない。個々人の現実的な努力のみが、かろうじて有効なのである。(p.33)

 

 この文章は、香山健一氏との論争に挿入されたものだが、呉さんの仕事に対する真摯な態度を明確に示している。現実に対処するのに、主義主張を持って来ても何も始まらない。深く共感する考え方である。

 私が、世間に跋扈する常識に追従する自分の弱さこそが苦しみの根源なのだと感じたのは、丁度、教職を辞した頃だった。自分に非があると思って辞めたと思って来たが、実際は違ったのだ。自分に非があると信じ込ませることで、自分だけに責任を押し付けようとしたのだ。そうすれば、他人を傷つけずに済む、同僚や上司や管理体制を呪わずに済む、両親や友人や恩師を(精神的にでも)傷つけずに済むだろう、と。自然と自殺のことを考えるようになったのは、非業の死を遂げたいという一心からだった。ここで死ねばカッコいい、と思ってしまったのだ。今は、段々と認識を改めるようになった。考え方も変化してきた。正確に何時何処で如何様に変化したのかを記述することは不可能に近いが、「何も悟れなくてもいい」と思った瞬間が、確かに私に到来したときから、段々と考え方の軸がずれたように思える。

 仏教にせよ、儒教にせよ、キリスト教にせよ、実存哲学にせよ、自殺を肯定するような教理や定理は在ってはならないと思う。たとえ一時的な慰めとしても、自殺を肯定しては行けないと思う。死を選ぶのには未だ早い、と思わせなければ行けないだろうと思う。無論、個々人の死の問題は普遍的になろう筈もないし、他者からの甘言や唆しによって翻弄されてはならないとも思う。が、しかし、大事なことというのは、私個人を越えた所にその本質が在るものなのだ。解釈学的循環にも自ずと限界は来る。その限界点に達したときには、自然と他者を求める。その時、どんな他者と出会うかは、偶然が作用するために分からない。運命的な出会いを果たした結果、自己解釈を手放すことも可能だ。手放すのには一人では出来ない。独りでは自分自身を手放せない。客観性を持つか、若しくは他者を求めるか、二つに一つだろうと思う。

 80年代から90年代の呉智英さんは、好敵手を欲していたのだろうと思う。自分の解釈を徹底的にねじ伏せてくれるような、強さを備えた言論人と出会いたかったのかもしれない。というのも、近代的国民国家や民主主義の概念的枠組みの持つ現実世界における圧倒的な破壊力の前に、殆どの知識人が真面目さを捨ててしまったからだろう。アメリカに安全を保障してもらった御蔭で、急速な経済成長を成し遂げ、「後は野となれ山となれ」的態度を曝け出している呑気な町人学者にも、古来の伝統や独自の文化が崩壊する様子を対岸の火事として嬉々として眺めるアナキストにも共通して欠けているのは、真面目さであった。呉さんは真面目でない人が大嫌いなのだ。そして、自分が真面目であるがゆえに、真面目でない人に指摘しないでは居れないのだ。たとえ論争が罵り合いになろうとも、議論を止めることが出来ないのだ。しかし、その真面目であるが故の滑稽な成り行きについては、私にも身に覚えが多少あったので、同類意識を覚えてしまった。

 日本人は皆馬鹿である。近代人は皆馬鹿である。人間全員馬鹿である。こういってしまうのは、簡単だ。そして、それは恐らく正しい。しかし言論とは正しい事を述べる訳ではないのだ。嘗て小林秀雄は、「正しいことは子供でも分かる」と言っていたのを思い出すが、本当にそうなのだ。自殺をしてはいけない。人を殺してはいけない。物を盗んではいけない。悪口を言ってはいけない。ではそういった正しくない事を、なぜ正しくないのか筋道立てて説明する職業人こそ批評家だ。疑問を持つ相手と根気よく付き合い、言葉で意見を戦わせ、議論以外の場所でも己の言葉と行いを可能な限り一致させようと日々努力する、こういう瞬間瞬間の行為選択を問われている人種こそ、言論人なのだと思う。