Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

赦しについて

 生きるためには赦さねばならない。しかし赦したとき、私は生きて行けない。

 なぜだか知らないが、こんな至上命題が頭の上に降ってきた。こういう言葉たちは、一体、何処からやって来るのだろうか。僕の頭の中で生まれてはいない筈だ。なぜなら、僕が生まれるずっと前から、生きる、や、死ぬ、という言葉は存在していたから。生きる、や、死ぬ、という言葉にも、誕生日は有るのだろうか?また今度調べてみよう。

 私は赦さねばならないらしい。何を赦すのだろうか。誰か私に悪い事をしただろうか?誰も、私に危害を加えようと思った者は居ない。結果的に、私は病に罹ったが、それは誰か特定の個人の思惑の為ではなく、むしろ、不特定多数の個人が集合して薄汚い化け物のような皮を被って、私を非難した為である。私を駄目な人だと言う。私を仲間外れにする。私に労働の支払いをしない。私に病院に行かせない。私に治療を受けさせない。私に仕事を与えない。私を無視する。私の声が届かない。私は、遂に、「限りなく透明に近いブルー」とでも形容したくなるような、不気味な幽霊のような気持ちだった。

 だがしかし、神やイデオロギーを信奉したくもないし、アナキスト犬儒主義者に成るほどの胆力も覚悟も、現段階では身に付いていない。身に付いていないものを、身に付いていると嘯いても始まらないのである。そうすると、また誠実さを求めるとか、無の思想を実践するとか、面白みに欠ける話に帰結してしまう。保守思想とは、一般的に言えば、目の前の美味しそうな物や面白そうな物や興味深い事実を斥けて、黴の生えた古書や大昔に死んでしまった古物を眺めたり、墓場の前で故人と会話するのを生き甲斐に感じる人種のことである。要するに、あまり面白くないのだ。

 否定してきた物を並べてみよう。優柔不断な性格、相手を全面的に受け入れようとする姿勢、一切の選択を拒む姿勢、破壊主義、一神教的なイデオロギーアナキズム、無の思想、保守思想、そして神仏に救いを求める姿勢。こうした物は、私に到来して、そして去っていった物達である。これらを纏めると、言葉その物である。現在の私には言葉が要らないのだ。私が考えたり、行動したり、取捨選択したり、感動を覚えたりするには、言葉は邪魔なのだ。邪魔だから捨てよう、とはならないし、人間は、悲しい哉、言語的な動物であるので、現にこうしてブログに残しておかないと、考えた気分にならないのだ。記憶力が悪いのだろうか。頭の中で構想する力が未熟なのか。きっとそうだろうと思う。

 生きて行くとは、言葉によって赦す事ではないのだ。いくら頭の中で、イメージの中の相手に赦しを与えても、仕方のないことだ。虚しいことだ。謝罪とは虚構の物語ではない。喧嘩両成敗として両者を無罪放免にするのは、しかしながら、公平さに欠けている。否、公平さというのも言葉に過ぎないのかもしれない。これはつまり、私にとっての正義論なのだ。正義とは、論であり、即、実践である。王陽明の言う所の、知行合一である。

 そうか、俺は儒教を勉強したいんだなあ。書いてみて、そう思った。