Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

昼ご飯の愉楽

 昼ご飯とは、朝ご飯と晩ご飯の間に頂くものだ。朝ご飯を余り食べない(若しくは食べすぎる)わたしにとって、お昼ご飯とは何か。

 それにしても食事について考えることを普段余りしないのは、それが当たり前になっているからだ。状況が一変して当たり前のことが当たり前で無くなった時、人は初めて考えるんだろうと思う。生活の不文律のようなものを日夜考えてしまう私も、状況が変わりつつあるのだろうと思う。

 事実、考えているという状況は、生きるのに相応しくないのだ。それは猫(様)を拝見していればよく分かる。猫(様)は、考えるとき物陰からじっと下界を伺い、一念発起したように飛び上がったり、駈け出したりする。そして、再び立ち止まりじっと見つめる。猫(様)は絶えず自己と世界の最適な距離を測ろうとしている。翻って私は、あまりよく世界を見ないまま、飛び上がったり、駈け出したりするから、こけたり膝小僧を擦りむいたりして、生傷が絶えない。だから、猫(様)は尊いのだ。

 朝ご飯や晩ご飯よりも、特にお昼ご飯の時間が好きになったのは恐らく大学生のなってからだ。気の合う友人たちと学食に行ったり、購買で弁当を買ってそれを囲んだり、大衆食堂や中華料理屋やカレー屋やつけ麺屋に行って腹を満たした後は、大抵話し込んだり、誰かの下宿に潜り込んで麻雀という流れだった。今はもうそれが出来ない。友達がここ には居ない。

 それでも私は未だにお昼ご飯が好きである。一人飯の寂しさすらご飯の御供に出来る年齢になったのだろう。『孤独のグルメ』の「井之頭五郎」ごっこだ。カクレンジャーごっこをしていたあの頃の自分と重なる。

 昼ご飯とは栄養価のバランスを取るためにも必要だ。朝はシリアルや卵かけご飯と納豆でもいいのだが、昼ご飯はもっと滋養が欲しい。定食スタイルが好ましいが、料理の技が未熟な私は、どうしても焼くだけ、お湯にくぐらせるだけのものになってしまう。焼き魚、焼き肉、炒め物、麺類くらいしかレパートリーがない。蒸したり、揚げたり、煮込んだりという一手間をしないで来た。単調な食事は飽きが来やすい。飽きるのは別段悪い事ではないのだが、何か変化を起こすには少しの手間を惜しまないようにしたい。明日は蒸し料理を何か作ってみようかしらん。