Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

読書とは病である

 読むときに一番気になる事は、書いてある内容よりもむしろ如何にして読んだ形跡を明快に残すかという事だ。これは本末転倒である。読書法に囚われてしまって、内容を理解する事よりも、色分けに夢中になっているからだ。これは、学習塾でアルバイトをしている時によく見かける、「綺麗なノート」そっくりだ。「綺麗なノート」とは、特に女子高生に多いのだが、馬鹿丁寧に教科書を一字一句書き写したり、無駄にも思える位に色を分けたり、丁寧に定規を使って囲んだりして、写すことが勉強の目的になっている生徒が作り出すノートのことである。しかしながら、私は彼女たちを全く馬鹿に出来ない。なぜなら私は今も尚、この「綺麗なノート」作りに並々ならぬ情熱を燃やし続けているからだ。勉強する事=ノートを取る事と理解してしまい、何時の間にか丁寧にノートを取る事に無上の快感を覚えてしまい、病みつきになる。これでは一体何のためにノートを取っているのか分からなくなる。何のための読書なのかを逐一考えなくては、ノートテイクも時間の無駄になりかねない。

 果たして、受験生でもない私は、なぜ読書などするのだろうか。読書は果たして善い事か。ちっとも善い事ではないのだ。読書をすればするだけ、自室に閉じこもってしまい外に出ず、体力も落ちるし、目も悪くなる。喉の通りが悪くなって、不思議なくらい声が出づらくなる。印刷物を前にすると落ち着くようになる一方で、生身の人間たちの群像劇には、もうどうしようもなく不安になってしまう。目的のない読書は、するもんじゃない。目的があっても尚、読書だけでは到底補えない知識がいくらでもあることを読書家は知るべきである。

 さて、私は一体何を目指して読書に勤しんでいるのか。知識欲を満たす為?精神力を鍛える為?言葉の力を鍛える為?それらを統一すれば、即ち、孤独を味わう為である。そう、私は孤独を味わい尽くしたいのだ。瞑想に耽るように、マントラを唱えるが如く、読書をしたいだけだ。読書だけでは感性は磨かれないし、体力は鈍り、直観も働かない。そう、ただ黙って読むだけでは行けない。読書は、もっとアクロバティックな精神の曲芸であるべきだ。より深く、より広く、より近く、より遠くへ。

 読書とは病の一つである。だから、毎日決まった時間と量を越えてはならない。読書が終われば直ちに外に出た方がいい。読書の危険性は、もっと宣伝されるべきである。整理されていない情報を大量に飲み込むと消化不良を引き起こす。情報とはカロリーと同じである。胃腸が丈夫な人間はいくら食べてもそれを栄養に出来るように、編集や構想が下手な人間は、大量の情報に接すると頭が混乱するだけである。自分の知力と体力に合わせて、日々の運動と読書を励むのがいいのだろう。