Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

懐疑主義者の憂鬱

 憂鬱である。私は憂鬱なのだ。訳もなく、唯、無性に苛立つ。地に足が着いていない感覚がある。思考の沼に嵌っているのだ。懐疑とは無限の循環である。ルネ・デカルトさんは、懐疑する自己を発見してようやく安堵したと伝え聞いているが、私は、自己を見つめるもう一人の自己すらも怪しんでしまうのだ。もはや、キリがないのだ。疑いがウイルスのように限り無く増殖していき、言葉は一体どこに向かっているのか、懐疑する言葉自体に大いなる意思があるのかは知らないが、この増殖は吐き気や目眩を催す。憂鬱になる。

 何処までも客観的になろうとする意思は、知性獲得の欲望の表れだろう。知性を獲得しようと努めれば努めるほど、その反対に、生理的な不快感がどんどんと増していき、目眩や吐気や鬱屈した情感が高まる。こうして主観の先鋭化が極限に達したとき、思考は停止して、自害を図る様になるのだろう。

 賢さとは憂鬱であり、愚かさとは幸福であるのか?そうではない筈だ。憂鬱も幸福も心の状態に過ぎないし、賢さも愚かさも、或る相対的な基準からの絶対的な距離に過ぎない。

 何れにしても私達人間は死ぬのだから、つまり死という絶対的不幸を癒やすことは出来ないのだから、あらゆる解釈も価値判断も、中観仏教の立場からは無価値である。『ブッダの真理のことば』には、四つの尊い真理(四諦)として、まず、諸行無常、次に一切皆苦、次に色即是空、最後に諸法非我と挙げている。私はこの考え方に賛成する。

 なんだか訳のわからない話になってきたので、ここら辺で止めておこう。何事も中庸が大事だ。