Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

仏教者の自覚

 懐疑とは知性そのものである。自己愛とは愚かさそのものである。直観とは認識そのものである。魂とは存在そのものである。自己とは関係そのものである。方法とは予測そのものである。結果とは原因そのものである。自由とは観念である。束縛とは実態である。希望とはこどもである。絶望とは病人である。生きるとは可能性である。死ぬとは絶対性である。

 この様な断定的な口調から導かれるのは、嵐のような自己批判である。否、そうでない、と。それは誰々の剽窃だ。出典を明示せよ。剽窃でなく思い付きだとしたら、具体的に、万人に分かるように論拠を示せ。論拠が示されなければ、戯言に過ぎない。撤回せよ。こうして私は、良心の声によって、自分勝手な発言が出来なくなる。絶えず懐疑せねばならなくなる。前に進めないのは、良心の声が大きすぎるのだ。

 価値の判断を己の良心だけに任せることは誤りの元である。もし私の内部に正解の根拠が欠けていたら、私はどう足掻いても正解に辿り着けないだろう。幻滅と失望を重ねるだけだろう。更に、良心の声の主は、私でないかもしれない。その主は、社会や世間や両親や教師や友人たちだろうと思う。では現実の私とは、良心の声に応対する私しか居ない。嗚呼、心の声を消し去りたい。

 自己愛を退けつつ、断定や断罪する事なく、妄執に囚われずに自己を充足させるには、やはり今の所仏教の教義に依る他ない。

 仏教者の良い所は、賢いと判断中止が可能な点だ。愚かな束縛から逃れつつ、かと言って思考停止に陥ることない、絶妙なバランス感覚の持ち主にだけ享受する事ができる思想が仏教なのだろう。下手すれば快楽主義者か悲観主義者に陥ってしまう。平行棒を渡るように、仏教者は静かにして孤独に慎重に歩む。それは私が兼ねて寄り望んできたことだったが、なかなか決心がつかなかったが、今晩、漸く決めることができた。

 私は仏教者に成りたい。