Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

そういうこと

 止まり過ぎてはいけないが、動き過ぎてもいけない。心の声が幾重にも幾重にも、生身の私を縛ろうとする。〇〇してはいけない。〇〇したらいけんよ。〇〇したら殴るよ。声に合わせて体が、ポンっと弾ける。「なんで?」と自分にも聞こえない位小さな声で呟いてみる。声は止む。身体だけ残された私は、いつも寂しくなる。そして、また、声が聞こえてこないかを待ち侘びている。寂しいのだ。声が聴きたい。たとえそれが命令口調であっても構やしない。孤独を恐れているのだろうか。恐れではない。孤独が恐怖であるのは、恥ずかしい事ではない。生理的な反応に近い。伽藍としたところに、一人座っているのは、寂しい。暇であるし、退屈して来る。何かほかにすることは無いか。探すこと自体が目的になる。そうして、探すことにも飽きる。飽きることにも飽きる。こうなると、もうどうしようもなく、観念するしかない。観念するとは、観て、念じることだ。あれ!と念じ、ある!と観る。それが何かは分からない。だが、それは私が観念するとき、ぽわっと、紫煙の様に、立ち上がってくる。

 何が言いたいのか、分からない。そうそう、今日は、論文を書こうと思って居たのだった。だが、色々と心が落ち着かなくて、そわそわしていたのだ。心を落ち着けねば。

 もう観念しよう。諦めきれぬことを諦める。どうしようもない、もはやこれまでだ。限界を知れ。だってどうしようもなかったじゃないか。あの時は、あれで精一杯だったのだ。「精一杯」というのは、活動限界ぎりぎりまで、二徹三撤当たり前、っていう意味じゃない。気力と体力が既に弱っているのにも関わらず、それに挑んだ態度のことだ。因果関係はすべて自分で決定できない。それに気づいていなかっただけだ。だから、無知なりに一生懸命、考えたり、考えなかったり、書いたり、書かなかったり、挑んだり、逃げたりしただけだ。視野が狭かった。これからも、狭いだろう。というのも、狭さも広さも、視点の高さで変わる故に相対的なものだから。

 観念する。諦める。受け入れる。見つめる。そういうことなんだろうと思う。