Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

なぜ私が悩むのを止めて外国語を勉強するようになったのか

 集団に所属するとは真実から離れるための最も確かな方法の一つである。しかし、孤立とは真実から最も遠ざかるための唯一確かな方法である。

 ところで真実から離れるとは、対象が真実であるか虚偽であるかを確かめるうえで欠かせない姿勢である。なぜなら、真実だと思い込んでいるその対象を疑う為には、対象と己の間にある程度の距離を保ち続けるための忍耐が必要になるからだ。対象にのめり込んで埋没する学者は、恐らく、生涯に一本だけ論文が書けるだろう。しかし、二本目、三本目は決して書けないだろう。対象と方法が合一したとき、目的は手段となり、価値は反転し、有は無に転ずるからである。埋没したことを気づかせてくれるのは、自己ではなく、他者の眼や声である。埋没した人間は心の声を聞いてはならない。否、彼は心の声しか聞こえていない。彼にとって、最も身近な他者、例えば母親や父親の声を聞くことは、真実を認識するという当初の目的を達成する事よりも、もっと困難な事業になるだろう。

 これは、私自身の実感である。ドグマに嵌る恐ろしさとは、本人以外みんなが「最近、あいつ何かおかしい」と気づいているが、誰もそれを本人に的確に指摘することができない状態のことである。客観的になろうとすればするほど、泥沼に嵌って抜け出せなくなり、気付いたら社会からほっぽり出されてしまった。そんな感覚である。

 自分を知るのは難しい。他者を知るのはもっと難しい。悩むとき、日本語(ないし、ある程度使いこなせる言語)を手放すのは、得策かもしれない。つまり、悩んだ時は、ラテン語や、ギリシャ語やサンスクリット語を学ぶ機会だと捉えるのだ。なぜなら、私の悩みは、日本語(ないし英語)から構成されている。その言語的な絡みを解くためには、全く別の言語(もしくはその言語の親言語)を学べば、解決の糸口が見つかるかもしれないからだ。

 悩んだら、漢語をするか、ギリシャ語、ラテン語を勉強する。

 これ以上の解決策は、無い、かもしれない。