Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

ラベルの重なり

 知識人とは知識を愛する人間のことであり、教養人とは教養を愛する人間のことである。最近、「反知性主義」なる造語が淫らに使われているが、本当は、「反知識人主義」と訳すべきである、と、ある学者が述べていたのを聞いた。尤もだろうと思う。知性を愛さない人間は、本来的な意味で、人間ではない。ホモサピエンスでない人間は、定義上存在しないのだから、非ホモサピエンス主義、という言葉が可笑しいのと同じ程度に、半知性主義は可笑しい。

 知識人とは知識を愛する人間だと言ったが、果たして、人間の内に、知識を愛さない、知識と聞いただけで虫唾が走るような人間がどれくらいいるのだろうか。若しくは、知識など不要で、学者の存在自体を疑うような人間が居たとして、果たして彼彼女は自分の中に存在する一切の知識を拒否できるだろうか。同じ論理を、教養人に当てはめてもよい。一切何の教養も無い人間は、この世で生きて行けないだろうし、俗世から離れて今は無人島に独り暮す老人だって、嘗て若かった頃に植え付けられた教養的なるものを未だに忘れずに堅持しているに違いない。

 知識と教養。この二つを明確に定義し、範疇化することは、私の能力を超えているが、恐らくそこには、人間社会の一般的な風習なり、習慣的な言語使用なり、死の直観なり、自然への畏怖、他者への恐怖が入り込んでいるのだろう。そうした生活の基盤を支える存在を、一般的に言えば共同体意識や文化となり、古代から中世近世の日本に限って言えば皇室となり、近代から現代の日本では民主制、国家主権、議会制、人権尊重のようなアメリカ建国の歴史に遡る、人間性の賛美になるのだろうか。

 哲学的な思考は自ずと歴史への回帰、もしくは日常への懐疑に赴くのだろうか。私が最近凝っているのは、日常言語でものを考えることと歴史的な思想史の発見である。凝っていると言い過ぎで、下手の横好き程度なのだが、日常言語で自分の内面を見つめたり、世界の思想史を出来る範囲で細々と研究する、というのはあまり多くの人間の趣味の対象にならないようである。私の周りに暮す人間の趣味的な活動と言えば、まず川沿いを歩いて目にするのは、走る人、釣り人、愛犬家、家族で団欒する者、スケボーやスケートする若者、読書する者、ケータイをいじる者。街に行けば、買い物をする人間の集合がいくつも見られる。消費者である。本屋に行けば同好の志が見つかるかなと思い出かけて見る。立ち読みする者は多数いるが、あまり私の好むような文庫や新書コーナーには人気がない。それも案外有難いっちゃあ有難いのだが、多くの人が、漫画コーナー、もしくは雑誌、週刊誌の類を読んでいる。雑誌、週刊誌と言っても、先程述べたような趣味人に向けて書かれたものだ。エクササイズ、健康、病気、栄養、習慣管理、自己啓発株式投資、貯蓄、不動産、車時計家具、芸能ゴシップ、アウトドア、ライフスタイル、服飾、装飾、マンガ・アニメのデザイン、DIY、様々なハウツー物、新商品の紹介、諸文化の紹介などなど様々ある。私が欲しい様な、日常言語での哲学的文章や思想史研究に関する書籍は、毎週発行されるほど人気がないようである。それは恐らく、私のような人間がまだ確固たる需要として発見されていないのだろう。知識も教養も、消費の対象としての価値を失ってしまったのだろう。

 社会にとって失われた価値を自ら探し求めるというのも、これはこれでなかなか面白い。ブログなどまさにその一環である。自分が考えたことや、自分が読んだり見聞きしたことを、日常言語を使って、不特定多数の人間に読ませる。もしくは似たような人間の書いたものをスクリーン越しに読む。それは、こういうネットツールがなければ成立し得ないことだ。大変ありがたい。

 知識人にせよ、教養人にせよ、私はそうやって自分を何かしらの言葉で定義づけるのが好きなようだ。ラップが好きだからヒップホッパー。翻訳が好きだから翻訳家。禅が好きだから仏教者。そうやって自分にいろいろとラベリングを重ねていくのが、私のライフスタイルなのかもしれない。