Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

幻想と虚妄

 幻想には力が宿っている。虚妄も百回繰り返せば真実に優る。これを利用するのが認知心理学である。政治経済社会文化のあらゆる人文系の学問分野で盛んに祭り上げられているこの「認知心理学的手法」なるものも、幻想と虚妄を利用してやろうという魂胆に端を発している。そうやって、本当に、気付かぬうちに利用されている状況に陥ってしまう。しかし本人たちは気づいていないのだ。木乃伊取りが木乃伊になる、とはまさにいい得て妙だ。

 これは一個人の生活が直面する諸問題にも当てはまる。私の抱える根本問題は、まさに、対人関係の悩みであるからだ。そういった私個人ではどうしようもない様な、否、私だけではなく、どんな個人にとっても根本的解決に至るのは極めて難しい問題を、解決出来得ると言い切ろうとするから、状況に飲み込まれてしまうのだろう。言い切ろうとする理由はよく分かっている。白黒はっきりつけたいから、快刀乱麻を断つような思考の在り様を持ちたいからである。しかし、そうは問屋が卸さない。(よく母親にこうやって諭される)大抵の場合、事態は複雑で、多様で、多くの異なった階層から成っているものだ。

 幻想と虚妄に絡めとられることとは、必ずしも不自由に生きているという実感を伴うものではない。むしろ、自由に生きている、幸福に生きていると感覚に訴えるように、幻想と虚妄は変幻自在に姿形を変えて提示される。幻想と虚妄の訴える力を再利用することは、核廃棄物を再生エネルギーに変換する並みに難しい作業だ。知っては行けない、だが一度知ったらもう後戻りはできない。止められない、止まらない、かっぱえびせん状態こそ、宗教や科学の妙味である。

 幻想世界に興醒めし、虚妄を喝破するためには、自分の中に固有の核、規準、軸(名づけは何でもいい)を持つことが、自然と求められるだろう。自分の個人史を振り返ってもいいだろう、先祖の苦労を知るのは一つ憂鬱を吹き飛ばす契機にもなる。また、敢えて別の種類の幻想世界に入り込んで、今までの幻想が実は幻想ではなかったと相対的な視点を持つこともできるだろう。賛否両論だろうが、幻覚剤LSDや、過剰なアルコール摂取による酩酊状態、オウム真理教が信者に行っていたとされる、電気ショックなども、神秘的な感覚を体験させる「手っ取り早い」方法である。

 私は、正しく恐れたい。自分の作り出す幻想や虚妄に。真面目であるとは、信じやすく、言葉や論理に影響を受けやすいということだ。それを自覚する瞬間を、日々積極的に取り入れないと、何時か何処かで、取り返しのつかない事件に巻き込まれるかもしれない。オウム事件の首謀者たちも、まさか自分が犯罪に手を染めるなどとは決して思っても見なかっただろう。取り返しのつかないことは、犯罪以外にも多くある。良心の呵責の発端となるのは、人殺しに関わったという自覚だけでも必要十分である。私はそれについて、今は、正しく恐れよう、としか言えない。