Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

のび太に権利はない

 権利についてお話しよう。権利とは何か。辞書の定義はこうだ。

 

 権利:他人に要求・主張できる資格。法学の用語としては、法によって保護された利益を享受することを主張できる状態を指し、その反意語が義務。(新潮現代国語辞典第二版より参照。以下同じ。)

 

 この定義から始めてみよう。定義をさらに細かく見てみる。「他人」「要求」「主張」「資格」と出て来た。それぞれをまた辞書の定義に沿って調べてみたい。

 

 他人:血縁のない人。親族でない人。自分以外の人。その事に無関係な人。第三者

 要求:他の人や団体に対して、行為を求めること。(請う、頼む、願う、よりも強い求め方)物や金を、くれるように求めること。

 主張:自分の考えや主義を言いはること。また、この考えや主義。

 資格:ある任務につくことや、あることができるとして、客観的に認められた身分・地位。また、そのために必要な条件。

 

 では権利の本来の定義を、今調べた細分した意味で大雑把に組み立ててみよう。権利とは、血縁のない人、親族でない人、自分以外の人、その事に無関係な人並びに他の団体に対して、行為や物や金をくれるように求めたり、自分の考えや主義を言いはることができるとして、客観的に認められた身分・地位、またはそのために必要な条件である。

 つまり、権利の定義とは、この辞書に拠れば、言わばジャイアンになる為の資格のようなものだ。権利とは言葉の定義上、マッチョな性格を有する。俺のものは俺のもの、お前のものは俺のもの、と言いはり、それを実現するための実効的な武力そのものが即ち権利である。(言うだけ野暮だが、一応、現在の民主的な近代国民国家である日本ではそうでない。法の下の平等が当然保障されており、また、一切の人間は生まれながらに基本的な人権を有するとされている。ジャイアンのび太も、等しく平等に権利が与えられている事になっている)試みとして、仮にこの暴論を推し進めれば、のび太には一切の権利が付与されないことになるのは面白い。のび太には権利を行使するほどの武力も、スネ夫の様な知力も、しずかちゃんや出木杉君のような精神力や求心力も持っていないからだ。ドラえもんの助けを借りて始めて、のび太はあらゆる存在から自由自在になり、権利の規範を超えた越権行為が可能になる。のび太ドラえもんに付与されたものは、権利ではなく、完全に自由になる為の機会である。

 もし、この過酷な世界で、のび太ドラえもん無しでも完全に自由に生きていこうと思ったらどういうシナリオになるのだろうか。恐らく、権利という概念自体を社会から取り除き壊そうと努めるか、若しくは一切を拒否するかの二つの道があるだろう。無政府主義者のび太として生きる道である。もしくは、みんなが集まるあの空き地の、あの土管の中に、ひっそりと、独り身を潜めて暮らす道だ。一切の権利を放棄する代わりに、一切の恩恵も受けないと覚悟した隠遁者のび太になるのだ!

 もう一つあった。筋トレである。のび太が遂に筋トレに目覚め、ゴールドジムで肉体を鍛え上げ、ジャイアンに負けない体力を身につければ、社会の方から自動的に権利が付与されるだろう。それに唯々諾々と従うのか、あっさり元の優しい性格を保ち続けるのかは、のび太しか分からない。

 なんだか、『サザエさんの謎』(古い!)みたいな話になってきた。今日はもう終わり。