Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

我慢の語源学

 痩せ我慢と忍耐について考える。字引によれば、前者は、無理に我慢して平気をよそおうこと、後者は、苦しいことや腹立たしいことをたえしのぶこと、我慢すること、とある。つまり、痩せ我慢とは、忍耐の変化形である。我慢の限界に達しているにも関わらず、平気であることを他人に知らせようとする意志が、痩せ我慢の根っこにあるのだろう。もしも、誰も知った人が居ない町に一人で暮らすのならば、その人間は「痩せ我慢」する必要を感じないだろう。忍耐で十分であるからだ。もし、生まれ育った町で、親戚づきあいも頻繁に在り、どこの店に入っても、道を歩いていても声を掛けられるような地元民が、忍耐することはとても難しいように思われる。忍耐は孤独の城で培われ、痩せ我慢は民衆の暮しの中で培われるのだろう。

 痩せ我慢が忍耐よりも劣っているとは、決して思わない。可哀そうだとか、助けてあげたいという憐憫の情が微かに湧く程度である。どちらの性質を持っていたとしても、しかしながら、権利の意識も、同時に兼ね備えるのが望ましいように感じる。権利の意識が難しいならば、自信や矜持や自己肯定感といった正感情でもいい。そういうバランスの取れた精神の在り様を求めることは、我慢や忍耐に傾くよりもずっと困難であり、また、挑戦し甲斐の有る行為であるように思われる。

 ところで、我慢することは美しいだろうか、汚らしいだろうか、または善いことなのだろうか、悪いことなのだろうか、突き詰めて言えば、真実に至る確実な方法なのだろうか。多くの識者は、少しの我慢は美徳である一方で、我慢し過ぎるのは逆効果であると説く。私もその考えに大方同意するのであるが、すこし前提を欠いた議論の様にも思われる。「そもそも」我慢とは何であるのか。こういう時は字引に頼るのが手っ取り早い。というのも、言葉の本来の意味を知るのは、通例の意味と全く異なる場合が多く、それゆえ語源学的考察は、前提を考える場合に大変示唆に富むことが経験上多いからだ。

 私は、多くの場合、三冊の辞書に頼る。新潮社の現代国語辞典、角川書店の漢和中辞典、岩波書店のSaito's Idiomological English-Japanese Dictionary(通称、斎藤英和)である。本当は、広辞苑言海やOxford English Dictionary(通称OED)などの本家本元の辞書を手元に置いておくべきなのだろうが、予算的にも、書架のスペース的にも不足しているし、また、あまりにも網羅的過ぎる辞書には、愛着が湧きづらいのだ。だから中辞典くらいがちょうどよい。また、特に斎藤英和のような、一人の大家によって編纂された辞書には、読む辞書としての価値が備わっており、言葉(訳語)の一つ一つを噛締める様に味わうことが出来る。

 話が逸れてしまった。そうそう、我慢の定義である。我慢は英語でpatienceであるから、この三冊の辞書の定義を紐解いてみよう。

 新潮:①(仏教)自分を偉いと高ぶること。②意地を張ること。強情。③たえしのぶこと。こらえること。辛抱。

 角川:「我」の本義は殺すこと。①(仏教)自分の才能をたのんで人を押しのけること。②我意を張ること。我執。③(国訓)こらえ忍ぶ。しんぼうする。忍耐。

 斎藤:patience【名】(気長な)忍耐.(不平を云わずに労苦に耐える)辛抱.(with any one―人に対して怒りを忍ぶ)堪忍. wait with patience 気長に待つ. A teacher should be armed with patience. 教師は堪忍の鎧を着る(教師たるものの資格は如何なる愚鈍な生徒に対しても立腹せぬ事)... the patience of Job(聖書より)最大限の忍耐.

 三冊の字引に共通する「我慢」の定義は、この言葉が宗教的性格を帯びていることを示唆している。仏教的な「我慢」については、慣用的な意味と異なる意味(自尊感情、より意固地になること)を持っているのに対して、聖書的なそれが、ヨブ記に見られるような、神が人間の精神力を試すときに与えた艱難辛苦に耐え忍ぶ極限状況を指している。このような語源的、文化的な比較はいつも興味深い。つまり我慢には、仏教的「我慢」、聖書的「我慢」、そして国語的(日本的)「我慢」の三つがあることが分る。

 話を元に戻せば、私が当初賛同していた、「少しの我慢はいいけど、無理はダメ」というのは、かなり近代的な人間観に基づいていることが分る。生理学や認知科学(特にスポーツ科学)的な、新たな「我慢」の誕生である。この近代的「我慢」と、伝統的、宗教的「我慢」のいずれかが真なる我慢であるか。仏教者たる私には、まず仏教的な我慢を推薦するより他ないが、しかし、多様な我慢を認めることも急いで付け足さなくてはなるまい。人の数だけ認知の仕方、宗教観、文化の受容があるように、我慢の数も人間の数だけある。