Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

身勝手な人たちについて

 身勝手な人が嫌いだ。かと言って付き合わないままで済むとは限らない。私は自分の与えられた仕事をしている。これ以上は無理だから、押し付けないでくれ。私にはケンリがある云々。これは、雇う側の論理と構造的に同じである。お前は俺の会社の社員だ。社員とは人材に過ぎない、取替可能なものだ。社員の仕事の配分はこちらに先ず決定するケンリがある。それに文句を言ったり、やらないで定時退社する奴はクビだ。俺には社員をクビにするケンリがある云々。両者とも、私から言わせれば、同じ穴の狢である。ケンリの上に胡座をかく輩である。

 身勝手さとは何か。権利を盾にするどころか、矛として利用する魂胆である。権利とは本来、盾でも矛でもないはずだ。権利とは主権者であるという当事者意識である筈だ。しかし日本社会に於ける権利とは、その場の空気であり、雰囲気そのものである。誰しもが、このケンリという空気の中に取り込まれてしまっているのだ。日本的権利とは状況依存的であり、流動的であり、不定形である。昨日まで馬鹿で役立たずだった半人前が、明日から主権者になる。投票権を持ったり、運転免許が発行されたりする。無論、本人にその自覚は無い。なぜなら、本人は何も変わってない代わりに、本人を取り巻く状況だけが変わったからだ。後は、当人が状況の変化に気付き、内面を変化させるかどうかだ。

 哀しいかな、多くの人達は、権利はお上から付与される物だとばかりに思っている。これじゃあ、パスポートもクーポン券もその本質的な価値を失ってしまう。前者は日本人全員の仕事の上に成立する、国際的な身分保証であるが、後者はその所有者だけに与えられる優遇券である。しかし、多くの日本人達には、それが同じケンリなのだ。日本人としての権利も、消費者としての権利も、同一化してしまう。恐ろしい感受性である。損得勘定で動く輩にとっては、例えそれが先人たちの努力の結晶から形作られ維持されたものであろうが、それによって自分が実際に損すればそれを不名誉なことだと感じる。大義のために働こうなどという高邁な思想は寸分も持ち合わせていない。そんな輩と話しても、私は憐れみこそすれ、同情できない。