Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

レシピとしての『諸行無常』

 瞑想の誘惑に打ち克ち、インナー・チャイルドの呼び声を搔き消し、腰を据えて仕事に取り組むための姿勢を保つ。寝言戯言を云わず、不平不満を云わず、甘言や誘惑を断ち切る。幻影を追いかけず、幻聴に耳を貸さず、幻想に囚われない。こういった訓練は、私が人類史上初めて取り組んだ訳ではあるまい。人類史とは、智慧の宝庫でもある。自分の失敗とは、極言すれば、普遍的な失敗であろう。そして、失敗とは普遍的であるがゆえに、皆その解決法を個人個人努力して、屈服しようとする。例えば、諺や名言に表出するような、経験に裏打ちされた智慧は、人類共通の財産である。また、父母や祖母の、時に諭すような語り口で語られる失敗談の数々は、(たとえ何度繰返されたとしても)傾聴に値する。それは、どんな本にも載っていない子ども、孫である私にだけに語られる金言である。私は同じ轍を踏まない。しかしこれは、本当に大変なことだ。

 悩んだら、悩みっぱなしでよい。当分の間、根本的解決なんてできないんだから、今は無理に自分を苦しめなくていい。こんな言葉が心の何処かから聞こえてくる。そして、その声よりももっと大きい声で、今この瞬間に決定せよ、さもなくばもう永遠に考える機会は失われてしまうかもしれない、と叫ぶ。そうして、肉体は、何時も、声の大きい方を選んでしまうのだ。そうだ、だから、今の自分がある。この the small voice「良心/両親の教え」とthe big voice「内なる子供/宇宙論的不安」の両方を満足させるような判断は、殆ど不可能に近い。だからこそ、諸行無常のテーゼが生きる。つまり、父も母もいずれ死に、それは私の心の内面に住む両親も、同様に死ぬということであり、また、その瞬間にその両親の間から生まれてきた幼児である私も、存在証明を失うということだ。その瞬間とは、何時何処で如何様に訪れるかは誰にも分からない。だから、一切の実在も観念も雲散霧消してしまうんだよ、という前提で日々生きることが、そうしないよりも、より善い選択なのではなかろうか。

 諸行無常。これだけあれば、後は何もいらない。まるで桃屋の『やわらぎメンマ』のような万能テーゼである。『やわらぎメンマ』があれば、もう他におかずは要らない。また、珈琲と煙草と芋けんぴがあれば、私の休日の午後は完全に充実する。本と音楽と映画があれば、私の芸術鑑賞は完全に充実する。白の綿製のシャツと、紺色のジーンズと、コンバースのスニーカーがあれば、私の服飾感覚は完全に充実する。こういう、完全に充実したセットがある、ということは、私にとって、「諸行無常」の教理と同じく、興味深い事実である。仏陀の『諸行無常』。これは仏陀の専売特許なのだろうか。そのレシピは2500年以上も前に作られ、既に散逸しているようだ。

 レシピとしての教理。これはなんだか使えそうなアイディアかもしれない。