Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

寂しさをどう癒すか

 論文のことを真剣に考えれば考えるほど、瞑想に耽る時間が増える。瞑想とは「よし、瞑想の時間だ、瞑想しよう!」と意気込んで、マニュアル的にないし習慣的にするものではない。勝手に、気付いたら、それが友人との会食の間でも、電車の席に腰掛けている時でも、湯船につかっている時でも、いつでも訪れるものである。そして、瞑想とは甘美なものである為に、その甘美さの誘惑に屈服し、瞑想が訪れやすい様な生活環境を知らず知らずの内に作り上げてしまう。だから、家から出なくなったり、人に会いたくなくなったり、ご飯すら食べなくなるのは、少なくとも私の場合に限ってであるが、瞑想の虜になっている証拠である。最早、それは瞑想というよりも、夢想、空想、幻想と呼ぶべき事態である。これから抜け出すのはなかなか難しかった。まず、瞑想習慣を一時的に中止することが必要で、私自身もそれに気づいているのだが、止められない・止まらない状態になっているのだ。大抵、一週間もしないうちに、中毒症状に屈服して元の生活に戻ってしまう。人間の習慣形成には、約三ヶ月かかると言われる。この90日間が我慢の為所である。我慢とは情欲よりも理法に従う力だが、中毒状態が長期化した私には、この力が既に抜け落ちてしまっていたので、回復に半年以上掛かってしまった。論文制作期間は、あと残り123日間である。軌道に乗るまでは、少しの間我慢が必要だろう。

 さて、今私を捉えて離さない一つの疑問は、寂しさの癒し方についてである。寂しさ、人恋しさ、孤立感。こういった感覚は、果たしてなぜ起こるのだろうか。なぜ私は寂しがり屋さんなんだろうか。それなのに、なぜ、孤独が好きだとか無頼派を気取るのだろうか。分からない。つまり私は天の邪鬼なんだろうか。これが好きと言えば、嫌、やっぱりこっちが好き、嫌、やっぱりあれが好き。あれか、これかの二択が出来ないのだ。選択できないのは、幼児性の表れである。幼児性とは、赤子が保護者なしには生きられないように、自己の生命維持機能を他者に完全に従属する依存体質のことではない。むしろ、そのように幼児性を表に出すことで、保護者に自分を守らせるよう仕向けさせ、保護者に一方的に義務を押し付けて、己は被保護者としての権利を満足させる利己的な人間性である。後者の場合、この状態が長引くと、保護者と被保護者の間に、「共依存」と呼ばれる危険な状態が生まれる。

 ところで、幼児の幼児性の発露とは、当然の理であるが、大人の幼児性とは、何かしらの企図や策略の上に成り立っている筈である。つまり私は、幼児的な振る舞いを、敢えて、自分の利益のためにそうしているのだ。そう考えれば辻褄が合う。損得勘定は、自然の理であるがゆえに、自分でもその理に従って振舞っていることに気付きにくい。幼児性とは、私にとっての処世術なのだろう。そして、最早、この処世術にも使用期限が来たのだ。お別れをしないといけない。己の中の幼児性、心理学的な用語ではインナー・チャイルド(「内なる子供」)と呼ぶそうだが、彼と私は今や全然違う人間になってしまった。だから、もうT君とは一旦お別れをしよう。私の固有の寂しさを癒すには、T君とのさよなら・パーティをすればいい。餞別としてT君が好きだったウルトラマンのソフビ人形を買って来よう。それがはなむけの印だ。そうやって、自分の中の幼さを捨て去るのが、社会復帰するための本当の意味での治療になるだろう。

 そろそろ、仕事だ!論文だ!