Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

復習・模倣・修正

 最も効率から外れた方法が実は理に適っているという事は、よくある話だ。急がば回れ、と先人たちは説いている。しかしながら、凡事徹底が簡単に出来ないからこそ、諺として残っている訳で、いつの時代でも、当たり前のことを当たり前に裁く事は難しい。いま私が取り組んでいる論文制作についても同様である。即ち、私が取り組みたいことは、先行研究の復習、理想的な論の組み立ての模倣、そして細やかな修正である。

 最近思うのは、私の余りある好奇心や野心や熱意は、実は、注意力の散漫の元になっているのではないかということだ。焦りは禁物だと日々言い聞かせないと駄目だということは、既に、相当焦っている証左だ。この矛盾した状況を的確に言い表すことは、深層心理学の仕事ではあるものの、今日はそこには立ち入らないで置こう。それは余りにも形骸化した議論に終止するしかなくなる危険性があるからだ。

 復習、模倣、そして修正。オリジナリティを忌避するこの学習法が、今はなぜか愛おしく感じる。滅私。そう、この方法の根底に流れるのは、「私」や「自己」や「精神」といった曖昧模糊とした観念ないし実在を一切否定しようとする激しさがあるのだ。「自己存在」というイデオロギーを全てカッコで括ってゼロで掛けてしまうような強引さがある。私は、その激しさや強引さに惹かれているのだ。「活力」とはまさにこういう事象のことを指すのだろう。神やイデオロギーを信奉する自分は、如何にも易きに流れた様に見えて嫌だ。しかし、かと言って、自分の倫理体系である筈の良心の声に耳を貸すのにも最早疲れ果てた。だから、自分を無に帰す小乗仏教的な考え方に一度染まって見ようと思った次第である。

 在家の仏教徒の暮らしと、在野の研究者の暮らし。この両者は、似通っていると思う。エゴイスティックで、孤独で、静かで、清潔で、秩序正しく、悲哀が体中に纏わりついて離れない。教義の実践と思想の実践がどのように交わり、また交わらないのかについて、また思うことがあったら書きたい。