Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

幻滅の愉楽

 なんだか最近思うのは、どんな作家も、自分の産み出した「飛びっきり」出来の良い作品には、魅力に於いても、言葉の持つ説得力に於いても到底及ばないという事だ。表現する者の宿命なのだろうか、それとも言葉の持つ魔力の為なのだろうか。丸っきり嘘っぱちを書いても、所々作家の人生観は浮き彫りになって行くのと同様に、丸っきり本当の事だけを書いても、嘘っぽく聞こえてしまうものだ。言葉だけでは真実の諸相を余す事なく伝え切ることが出来ないという事だろうか。

 兎に角、私は、言葉と言葉を発する人間の間を流れる確かな溝が、それはそれは深い溝が在るのだろうと感じる。人間は恐らく言語的な動物であるが、しかし丸っきり言語だけで出来ている訳でもあるまい。言語はそれ自体文化でもあり、独特の内的な世界を有している。人間が居なくたって、言葉は立派に独立自尊で悠々と生きて行けるだろう。本音を言えば、人間味が完全に消失した言語世界こそ、最も言語らしい言語になる筈である。そして、その言語こそ、数学(または形式論理学)だという人も居る。

 社会・経済学者の小室直樹氏は、数学は神の論理であると言い切った。それは恐らく、数学こそ最も神に近づいた言語であるからだという認識があるからだろう。一方、著名な数学者の岡潔氏は、数学は情緒であると言い切った。数学の論理を積み上げていくと、どうにも本能的に理解できない領域にまで行き着くらしい。そのときに必要なのが、論理学ではなく情緒らしい。経済にも数学にも疎い私にとっては、どちらも頷けるような話である。恐らく、どちらも相対的に正しいのだろう。(つまり、どちらも相対的に間違っているのだろう、という事だが)

 言葉とは〇〇だ。数学は〇〇だ。このような価値付け自体に然程意味があるとは思わないが、興味深いのは、物事を突き詰めて考えていくと、何か一つの体系に収束して行くこと自体である。それは、己の人生を自ら価値付けたいという欲望の現れなのだろうか。私はこんな人間だった。それは、この様にも言えるだろう。私の仕事はこんな役割を持った。私の子供たちはこんなに立派に育った。つまり、私の人生は良かった、と一言いえば済みそうなものである。今のわたしにとって、これくらい下らない話は無い。それは、無の思想の対極にあるからである。人生は有であるという「大きな物語」は、私の信奉する「無の思想」と対極にある。否、これは思想なんてもんじゃない。思想と言ってはもう駄目なのだ。もっと軽くて、重さのない言葉だ。そう、これはただの気付きに過ぎない。ただの気付き「だからこそ」すべての前提をぶち壊してしまう破壊力を備えているのだ。

 最も鋭く深く染み込んでいく言葉とは、言葉自身も己の軽さに気付かないほど軽く、ほとんど意味を表さないかのように思われる種類のものだ。それが、他人が意図せず発する言葉であり、独り言、気付き、率直な感想、発見の類である。言葉の表面を撫でるときに、表象を覆っていた仮面がポロポロと零れ落ちて、一瞬だけ垣間見える実在の感情である。混じりっけなしの、純粋な経験である。行為そのものの美しさである。幻滅とは感動の裏返しだ。感動するから幻滅するのだ。片方だけなはずが無い。