Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

論文制作11日目

制作工程

 まずはラップを聞き、歌詞を読み、歌う。これがないと始まらない。ラップ研究とはカラオケである。これは私の発見だ。

 その後に論文を纏めたり、歌詞を翻訳したり、論文を書き足したりする。

 

制作過程での発見

 やはりBiggie Smallsにも、Tupac Shakurと同様に、主に三つの顔があるようだ。badman, everyman, and goodmanである。それぞれhustler, crazed nigga, and father of two/a son of motherと言ってよいだろう。T.S.の場合、2PAC, Tupac Shakur, and Makaveli the Don/a son of motherである。

 文学における人格の分裂と結合は、よく見られる現象だが、それをテーゼとして立式化することは出来ないだろう。なぜなら、人格とは構造が普遍的であると同時に、個々人の置かれた状況が個別具体的だからだ。Rapに限ってこのペルソナの研究をしてみる必要はありそうだ。

 和辻哲郎氏の『面とペルソナ』(青空文庫)を、キンドルで読んで見る。日本舞踊に於ける面の多様性について書かれてあった。以下引用。

 

ここまで考えて来ると我々はおのずから persona を連想せざるを得ない。この語はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。dramatis personae がそれである。しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格等もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。しかるに人は社会においておのおの彼自身の役目を持っている。己れ自身のペルソナにおいて行動するのは彼が己れのなすべきことをなすのである。従って他の人のなすべきことを代理する場合には、他の人のペルソナをつとめるということになる。そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。かくして「面」が「人格」となったのである。
 ところでこのような意味の転換が行なわれるための最も重大な急所は、最初に「面」が「役割」の意味になったということである。面をただ顔面彫刻としてながめるだけならばこのような意味は生じない。面が生きた人を己れの肢体として獲得する力を持てばこそ、それは役割でありまた人物であることができる。従ってこの力が活き活きと感ぜられている仲間において、「お前はこの前には王の面をつとめたが、今度は王妃の面をつとめろ」というふうなことを言い得るのである。そうなると、ペルソナが人格の意味を獲得したという歴史の背後にも、前に言った顔面の不思議が働いていた、と認めてよいはずである。
 面という言葉はペルソナと異なって人格とか法人とかの意味を獲得してはおらない。しかしそういう意味を獲得するような傾向が全然なかったというのではない。「人々」という意味で「面々」という言葉が用いられることもあれば、各自を意味して「めいめい」(面々のなまりであろう)ということもある。これらは面目を立てる、顔をつぶす、顔を出す、などの用法とともに、顔面を人格の意味に用いることの萌芽であった。(引用終)和辻哲郎 面とペルソナ

 

 そういえば、私はどんどん興味が膨れ上がって、その膨張的な思考に終始踊らされている。膨張する興味関心は衰えを知らず、その矛先が向かう先はAmazon.comである。際限なしに、私の貯金は新刊、古書、文庫、新書、単行本、全集、辞書、事典、翻訳本、原典の購入に割かれ、または研究対象である膨大なCD集めに割かれ、溜ったAmazon Pointは恐らく3万ポイント以上は在るだろう。しかし、そのポイントもまた次の本やCDに割かれるのだ。(古本はポイントが付かないので、最近は全然溜らないのが悲しい。)

 要するにだ。ここに研究の様々な関心を書き連ねてきたように、関心の歯止めも同時にかけないと行けない。例えば、作品評にするのか、作家評にするのか、同時代評にするのか、ジャンル批評にするのか、それらのMixにするのか、決めなければいけない。そして、それは殆ど一瞬で決まるのだ。なぜなら時間(Dead Lineとして、残り119日間しかない)の制約があるためである。作品評にするのなら、Biggie SmallsのReady to Die (1994,Bad Boy Records)と、2PACのMe Against the World(1995, Interscope)までで切る。二人のいざこざや、2PACの裁判、二人の争い、メディア戦争、二人の死、死後の権利争い、お家騒動などなどは、余りにも情報が錯綜していて、悪魔の証明に近いので止める。はたまた、2PACがFBIやCIAのターゲットだったとか、マフィアとのつながりがあったとかの、憶測の域を出ない迷信、陰謀論の類も斥ける。この種のゴシップ種、「噂の真相」的なジャーナリズムは、学術研究から最も離れた所に位置するが、それもそれでフィールド・スタディ的に取り扱っても良さそうだが、今の私にはその技術も能力も資金も無い。なので、今回の研究の範囲がおのずと決まってくる。

 作品は作家に一つずつ。時代も、作家が生まれてから、その作品が出来上がるまでに限定する。その作品に関わった人物、例えば、Sean CombsやDigital Underground、二人の母親、父親、その他家族、そしてBad Boy Recordの立ち上げに関わった多くの人間たち、Tupacが2PACとして認知されるためのきっかけになった、映画Juice(1992年、Ernest R. Dickerson監督)のBishop役について触れることが出来るので、必要十分なのである。その作品の受容と解釈の変遷についてのみ扱い、全作品の中でどのように位置づけるかについては、また次回以降の論考で扱う。局所的な研究であるが故に、「いいたいこと」の範囲と、「いいきること」の出来る範囲が、明確になる。

 範囲を決めないと行けない。これに気付いただけでも第一歩だ。

  思ったことは全て包み隠さずぶちまける様にここに書く。今はブログを書いている時が一番落ち着く。ブログと論文書くのを同一線上に置きたい。心理的負担が減るように。誰かが見てくれると思えるから、頑張れるのだ。他者の視線は怖いが、全く他者に気付かれないのは、もっと怖いからだ。

 今日最後の発見。B.S.は安藤昇Ready to Die は『仁義の墓場』T.S.は相田みつをMe Against the World は『にんげんだもの