Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

基準と価値の拠り所

 習慣を変化させることについてどれくらい考えたのだろうか、途方もなく考えてきたのだ。悪習を断つこと。これは私の趣味だった。自己改造という言葉の響きが好きだった。過ぎ去った日々を振り返り、この瞬間から生まれ変わった気持ちで、前を向いて何かに取り組む。それは唯一私の誇りにして良い習慣だったと思う。習慣について考える習慣が、私には身体に染み込んでいる。そろそろ、このメタ認知能力の開発に心血を注ぐのではなく、最も身近な選択について、より良いと思われる方を選ぶことについて、考えるのではなく決断することについて、思考と行為が一体になるような融合を求めて、動いて行きたいと思う。今ここで為すことに思考を移す。個別具体的な状況に対して、「今・此処」の身体と精神をよりよく働かせることについて、心血を注ぐ。幸福の為でもなく、健康の為でもなく、名誉の為でもない。だから、アイディアの所有者、発案者とは必ずしも全て自分自身でなくてよいのだ。特に、真善美と呼ばれている一群の最高のアイディア(形而上学)について、私がその全てを認識する必要は何処にもないのである。人からの借り物のアイディアだったとしても、若しくは、望まれない選択だったとしても、良心や常識に極端に反しない限りに置いて、という前提は付されるけれども、先ずは受け入れるのが、より良い選択だろうと思う。私一人の個人にすべての善き判断、美の実現を委託され期待されている訳では無いのだ。Supermanに為れる訳でもない。挑戦する事に価値を見出すのは、己でなく、常に厳然たる他者であるのだろうと思う。それ位、自分で判断するというのは、覚悟の要ることだろうと思う。

 善悪の基準の普遍性の持たないことは、既に知られている。美の価値の普遍的でないことは、恐らく誰にも容易に理解されることだ。両者は全く個人的な営為であり、同時に一般的な民衆の支持なしには生きて行けない、絶え間ない往還運動の内部に存する。個人世界の内部でも、善悪の基準は激しく揺さぶられるし、時間の経過によって、何を美しいと思うかについての感受性も大きく変化する。それは外的世界に於いても同様であり、そこにはまず思惑が働き、戦略に沿って動き、観測と結果による反復運動がある。善悪や美醜の基準の担い手は、まず物であるのか、事であるのか、人であるのか。人であるとすれば、それは一群の政治組織であるのか、強力な個人であるのか、物であるとすれば、それは言葉の発明か、ゼロの発見だろうか、天文学や物理学の成果だろうか、事だとすれば、それは、もう途方もなく、記述を越えた言明できない現象であるのか。社会科学や自然科学の一般教養について疎い無学な私は想像することもできないが、この種の問いが既に問われている種類の問いであり、ある程度の確証を以て提出された回答が恐らく存在しており、その回答が「学問」と総称される世界の内部に潜んでいるという予感はあるのだ。それだけでも十分な進歩ではないだろうか。

 私は恐らく、学問に惚れ込んでしまったのだろうと思う。学問を知りたいのである。それは、全く恋愛に似ている。恋愛と学問のアナロジーも、恐らく私が最初の発明ではないだろう。スタンダールの「恋愛論」とウェーバーの「職業としての学問」を想起する。私は恐らく、西洋哲学や西洋思想に被れているのだろう。学問について知りたいのか。どこまでも客観的でありたいと願うのは、私の習癖である。そうして、どこまでも客観的に、客体としての世界を見つめ続けることこそ、全く同時に精神の内奥で、どこまでも主観的な観察眼が働いているのだ、という直観があるのだ。これは全く空想である。空想であるから、別段間違っていても気にしないのだが、こういう発想は一体何処から来たんだろうか。

 なんだか、分からなくなってきた。つまり、私は、善悪の彼岸も、美醜の境界線も、全然分からないので、「私は知っている」と断言できるだけの人間を列挙してみて、リストを作って、そうして闘わせてみたいのだ。私は、自分の公平無私さをそこで試してみたいのだ。そうやって判断基準を鍛え上げて行きたい。判断基準なしに判断することは、論理的に出来ない。しかしながら、私たちは、判断基準なしに様々な判断を為しているように見える。だが、私の見る所、多くの場合、その価値判断の根拠は借り物である。全体主義の起源とは、恐らくここら辺に在るのだろう。借り物競争の原理だ。だから、私は自分が恐ろしくなる時があるのだ。誰の基準に一体自分は従っているのか。それが分らないことに、全く恐ろしくなってしまうのだ。

 列挙し、数え上げ、組み合わせ、議論させ、判定する。そうして、自分の倫理観や審美眼を鍛え上げるのだ。鍛え上げて、全く己の薄汚さを捨て去るのではなくむしろ露になるように、それはまさに鍛錬の道であるが、それは激しさが伴うこともあろうが、自己憎悪など生易しいものではなく、運命憎悪とでも言いたくなるような極限的な状況に追い込まれても尚、自殺せずに、そうそこが大事だ、自殺しないまま、より良い判断を求めるのだ。より良く判断できなければ、より美しい観察を求めるのだ。状況を、文脈を、趣を持って眺めてみようとする余裕を持とうとする。努める。

 そうやって、諦めることを諦めて行って、遂に本当に諦めてしまった後に漸く、自己認識という道が拓かれるのかもしれない。もうこれ以上否定を重ねることが出来ない、自分の生活のぎりぎりまで否定しきって、さあどうしようかと思って初めて、自分の客観的な認識の可能性が導かれるのだろう。限りなく他者に近づいた自己になること、それが同時に、限りなく自己に近づいた他者を意味するはずだ。

 酔狂気味になってきたのでそろそろ筆をおこう。明日もよろしく。