Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

自問自答のオープン・クローズ

 オープン・クエスチョン(Open-ended question)とクローズド・クエスチョン(Closed-ended question)という区分があるそうだ。前者は、叙述型の質問であり、後者はYes/No型の質問を指す。前者は、所在や定義を明確にし、文脈上の意味を限定したり、物語を紡ぐ語り部の役目を担わされる。後者は、相手の物語を一方的に聞く代わりに、選択の判断の根拠をこちらから示すことなく、意志を明確に表明する事が出来る。前者は、真剣な議論向きであり、後者は日常的な会話向きである。前者は時として深刻な自問自答に陥り、後者は時として互いの腹の探り合いになり、真意が隠れることがある。

 私は、この三年間、全部の自問自答を、オープン型に限定してしまっていた。そちらの方で成功したとすれば、熟慮するための気構えが出来たことである。失敗したとすれば、選択することを恐れるようになったことである。

 私は今尚選択の岐路に立たされている、と思っていた。しかし、オープン型の自問自答を積極的に選んでいたのは、この私なのだ。私は今、アドラーの目的論の意味が分かったような気がする。

 真の自由な言語操作とは、本当に難しい。自分で選んでいると思っていた方策は、実は権威と見做されている少数の人間たちのアイディアの模倣だったりする。その逆も然り。自分では当然だと思っていたアイディアが、実は、全然一般的でない、むしろ独創的と呼べるような種類のものだったりする。

 例えば、私は仮観・中観・空観の三つについてよく考える。自分勝手に解釈したり、Google先生に聞いたりして納得したり、しなかったりする。クローズド型で自問自答してみると、この三つについて考えてみること自体についてあまり考えなかったことを、驚きを持って思い知らされる。価値があるから考えるのだ、と思い込んでいたのだが、その思い込みの方が実は、問題以上に問題にすべきだった。「論文制作に取り組むか、小乗仏教の教義について知るか、どちらをしますか?」と、先ず自問すれば良かったのだ。自ずと、「前者です」と答えられた筈だ。

 今私は珈琲屋に居る。本を持ってきた。自問する。「珈琲を飲むか、本を開くかどちらがいいですか?」

 まだ少し悩んでいる。