Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

Notes on the notorious B.I.G.'s "ready to die" (29/140)

 現在私が取り組んでいるラップ音楽研究とは即ち、Christopehr George Latore Wallace (1972-1997)というアメリカ人のことを指している。

 彼と同時代に活躍した、Tupac Amaru Shakur (1971-1996) について私が語り得ることは殆どない。彼の生み出した膨大な音楽や歌詞や俳優としての功績、彼にまつわる膨大な映像資料、裁判記録、(陰謀論お決まりの)FBIの作成したポートレイト、テレビやマスメディアに於ける過激な発言、巻き込まれたレイプ事件と裁判その後の思想的改宗とMakaveli the Donへの改名、東西に分かれてのラップ合戦と、不可解な殺害事件、レコード会社からの追放と設立、母Afeni Shakurの経営するAMARU社とDeath Rawレコード会社との著作権をめぐる争い、死後現在に至るまでhip hop iconとして保守され続けている事実など、ずらっと並べてみるだけでも彼についての全貌を知り得ることは、書誌学的なアプローチが必要不可欠である。またそれは私個人の努力を大きく超え、経済的にも、技術的にも大変困難な仕事である。

 であるからして、2018年現在の日本(東京)に研究の拠点を持ち、また確かな研究資料として手元に在るものはChristopherの生前に残したたった一枚のアルバムだけである。

 彼らは、少なくとも何者かによって殺害される以前、詩人(poet/writer)でなく、ラッパー(rapper/rhymer/lyricist)であり、スター(actor/performer/star)であった。というのも両者は生前たった一行の歌詞すらも文字媒体において出版しなかったからである。彼らの言葉は、すべてカセットテープやCDやビデオテープなどの記録媒体の内部に保存されているだけであり、仮に彼らの歌の歌詞を取り上げるのならば、それは言葉(letter)というよりも声(voice)と呼ぶべきものである。

 私はChristopherのことを、Tupacよりもよく知っていると直観する。この直観の正しさを証明しようと、あれこれ思案しているといってもいいだろう。なぜ私はTupacよりもChristopherの方をよく理解できてしまうのか。Tupacの声よりも、なぜChristopherの声を傾聴してしまうのか。というのも私は、Christopherの背景的な知識、即ち、彼の家族の話だったり、彼の生まれ育った町、彼の父親のこと、彼の犯罪歴、彼の性的な指向性、彼の好きな食べ物、彼のモットー、彼の自殺願望、彼独自のニヒリズムについてよく知っているからだ。即ち、彼の生前に残した唯一のアルバム ready to die (Bad BoyRecords. 1994.)という円盤の表面の微細な傷の中に、彼の魂が刻まれているのだ。私はこの作品を聖典の様に扱いたい訳では無い。この中には、生きる道標になるような言葉は殆どない。むしろ、この円盤を聞くとシニタクなるのだ。そして、なぜだか知らないが、彼の声は面白いのだ。どうしたって暗く、悲しい死の現実が滑稽に思えてくる。そこが彼の天才たる由縁なのだろうと推察する。

 中世ラテンキリスト教の教えである、Memento Mori(死を想え!)こそ、ready to dieの基調になっているアイディアである。故に、彼の天才性は彼の思想性ではなくむしろその表現性に在ると言える。彼の音楽は、CDのジャケット写真の赤子の透徹した眼差しの如く、不気味であり、聴く者を捉えて離さない。彼のアルバムの色は、白と赤と黒の三色の混合色から構成されているのである。虚無的な白、生臭い血のような赤、黒や灰色で描かれているのは、彼の髪、肌、唇、鼻、眼球、眉、掌、彼のinner childないし無邪気な象徴としての赤子である。彼のアルバムにある色彩とは、即ち、赤だけ。その一色のみが、異様に輝いて見える仕掛けになっている。

 そうして、notoriousbigreadytodienotoriousbigreadytodieという暗号のような、マントラのような、合言葉のような文字の羅列が横並びに描かれている。これは、とてもギャングスタ・ラップという一ジャンルに収めて良いようなものではない。どうしたってここにはメッセージがある。ジャンル的というのは、即ち、党派性である。ここには党派性は一切感じられない。ここにあるのは、一貫性であり、世界観であり、内的な充実である。一言で言えば、自己言及性が存在する。だからこそ、文学的な対象に成り得るのであり、この作品の独自性を主張するための理由にもなる。

  だからこそ、ready to dieは伝統的な読み方、思い浮かぶのはsymbol huntingである。または、ニュー・クリティシズム的な精読法であり、物語内世界を一先ず【真理の集合】として考えてみる姿勢である。括弧でくくって終わらせるのは判断中止であり、未決定を吉とする怠惰である。だからこそ、この【ready to die】という大きな括弧と同じくらい充実した、対照に値する実在が欲しくなる。その実在が、Me Against the World(Interscope Records. 1995.)というcrazyに為る直前のTupacが提出した最後の作品という訳だ。そうしてこの括弧同士を見比べ、項目ごとに対比させ、差異を見出そうとするのが私の試みである。またその差異の集合体こそ、私のラップ解釈の起点であると同時に限界点でもある。この解釈がどの程度の尺度と強度を持ちえるのか、即ち1990年代全体のラップ音楽解釈の基調になり得るのかどうかについては、これからの研究の視野に関わってくる問いである。