Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

30/140:如何にして細切れの時間を活用するかについて

 朝目が覚める度に、既にスケジュールが遅れており、もう次の予定が差し迫っており、緊迫感を感じるのは何故か?なぜ、スケジュール通りに物事を進めることが出来ないのか。否、なぜ私は、この細切れの時間を大切にしないのか。

 というのも、私は昨日の夜、全然寝れなかったので、明け方母親から起きるようにせかされても遂に起き上がることなく眠りこけてしまい、気が付いたら午後一時過ぎで、シャワーを浴びたり、浴槽の中で昨日Amazonから届いた本(『老子と少年』南直哉著、新潮社)を通読した後、髭を剃ったり、身体を浄めたり、髪を乾かしたり、服を着替えたりした後、昨晩の洗い物がまるで私の為にとっておいたよと言わんばかりの散らかり様で、それを洗い、また物干しざおに掛かっているタオルやシャツの類も、早く取り込んでねと言わんばかりなので取り込み、忘れかけていた薬(錠剤三錠)とビタミン剤(錠剤五錠)を一気に水で流し込んで、既にぐったりしている所だったのだ。そして現在、煙草を吸いながらこれを書いている。現在時刻2018年10月24日15時26分50秒である。

 現在時刻と打とうとしたら、現在地獄と誤って変換されてしまった。が、これは誤りではないことにすぐ気が付いた。そうなのだ。現在時刻を知ろうとすれば即ち、現在の私の置かれた地獄について知らねばならない。私の意志と欲望は、指数関数的に無限を目指す運動体のようである。私の運動体は恐らく数式には表せないだろうし、図式化することも不可能であろう。しかし、時間とは一本の直線である。一秒経つということは、一秒だけ私が老いたことである。一秒経つという事は、残り110日間(2,640時間、158,400分間、9,504,000秒間)から一秒間が抜き取られることである。

 この抜き取られた「一秒間」は何処に行くのか。私これまで生きてきた28年間余りの時間(約9億秒間!)は、果たして雲散霧消してしまった。この内の0.00000...001%が、私の意識を作り出していて、残りの99.99999....99%が記憶の内部に、つまり脳という複雑怪奇な構造体の内部に、不可思議な仕方で、二度と取り出されることのないままに保存されているのだ。そうだ、私はもう記憶について悩む必要がなくなったのだ。というのも、思い出し方を忘れてしまったから。思い出し方を忘れてしまったのを、完全に忘却した、というのだろう。だから、今私の意識を作り上げている、一匙の記憶こそ、まず大切にしないといけない。それは私が「大切である」と承認したことなのだから。

 何の話か分からなくなってきた。タイトルを見返す。「如何にして細切れの時間を活用するかについて」現在時刻15時43分50秒である。ちょうど17分前に、こんなことを考えていたのか、既に忘れている。昨晩から現在までの行動記録から、なぜか、時間の話になって、なぜか、記憶の話になって、なぜか、意識の話になった。言語が独り歩きしているのだ、私の場合。言語に意識を握られているというか、元々言語は私の友であったはずなのに、今や絶対者として君臨している。言語を引きずり下ろせ!オレに指図するな!

 言語は無用の長物である。言語は遊びである。言語はそれだけで何の価値も生まない。言語は要らない!言語や言葉の価値というのも、一度崩壊させた方がいい。だって、言語からは何も生まれないのだから。言語が生むのは、また新たな言語である。私個人の心配事、悩み事、怒り、苦しみは、言語だけ駆使しているだけでは本質的な解決まで至らない。言語は、ただの遊びだ。言葉遊びというのも可笑しな言葉だ。言語そのものが遊びであるのに。言語言語と二回繰り返しているようなもの。しかし、全ての遊びが言語である訳が無い。遊びとはもっと広い概念である。言語よりも遊びの方が偉い。遊びは偉いのだ。

 15時50分になった。そろそろバイトの時間である。続きはバイト後に。

 

 帰ってきた。バイトでは興味深いことがよく起こる。それはこの東京の自室で起こることよりも興味深さの点に於いて、格段に高い頻度で起こるのである。私は、恐らく元来社交的に産まれて来たのだろうと感じる、というのも、私は独りになることを恐れているからだろう。寂しん坊なのかもしれない。

 本題に戻る。なぜ私は細切れの時間を重視してこなかったのか、という反省である。私は時間という概念ばかりに囚われて、その効果効能について余りにも考えてこなかった。時間の効果効能とは、仕事の効率とは全く無関係ではない。私は所謂「ハウツー本」の類に段々心をときめかせなくなってきたのである。

 そういえば病気が最も苦しかった1年前の今頃、私が心底憧れていたのは隠居、即ち、静寂さと、清潔さと、秩序立った暮しの在り様だった。あの頃の気持ちは、今になってもほとんど変わることは無い。calmness, cleanness, and systematic way of lifeである。こうした英単語の羅列は何故か知らないが聞こえがいいものだ。何処かの演歌歌手のモットーをテレビで観てなぜか今でも思い出す。Slow, Steady, Simple(ゆっくり、着実に、簡潔に)。なかなかバランスのいい言葉選びだなあと思ったからであろう。

 そうそう。細切れの時間についてだった。細切れの時間とは何か。これは「無駄」な時間ではない。嘗て私を駆り立てたのは、「無駄」を殲滅せんとする闘争心だった。問題のリストアップとその解決法の理論的な体系作りに、一月のほとんどを費やしたこともあった。そして、そのmaster planに沿って実行することは現実的に実行不可能なのである。というのも、このジレンマの発端は、私の自己実現欲求にあったのである。自己実現とは、希求である内はいいのだ。これが「自己実現せねばならない」と命令口調に変化してきたら危ういのだ。その内、「あれか、これか」の二択になり、最後には「これに賭けるしかない!」という一択になる。自己実現欲求は、肉体としてなのか、精神的になのか、その両方なのか、もしくはそのどちらでもないのか、そこら辺をはっきり自覚しないことには、結局の所、何も始まらないどころか、病の温床になったり、自己疎外になったり、自己破壊欲求にすら繋がるのだ。

 細切れの時間とは、「今のこの瞬間」である。具体的には、1分から20分位の活動と活動の間のskitである。本を1ページだけ読む。論文のアイディアを思い出す。スクワットを30回する。腹筋運動をする。瞑想をする。blogを開く。タバコを吸う。珈琲を淹れる。なんでもいい、毎日続けたいことをこのskitを利用してすればいいのである。しかし、このskitこそ、一日の物語に彩りを添える装飾品であり、また長い人生という物語の転換点にすらなり得る。意識のディスコースマーカーにもなる。無論ダイエットにはこのskit感覚が大切である。食うか食わないかの決断は判断中止(suspension of judgement)というskitを経てから行うべきだ。skitを侮ってはならない。

 私のskitの中心は、まさにこのブログabyssである。これからも私の遊び場になるのだろうと思う。見てくださる方が居ると信じて。

 

2018/10/24 19:52:24-23:38:15. At home of Tokyo.

次回以降の投稿には全て、現在時刻(書き出しと終わり)と現在地の情報を記したいと思います。