Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

独立自尊の精神―問いと希望を保つために―

 思いついたことを、思いついた順に従って書き連ねることは、余りにも稚拙である。そこには全的な承認欲求を満たそうとするのが容易に見て取れる。私は、斯様な文章があまり好きではない。だが、自分の文章を読み返すたびに思うのは、まさにこの承認欲求の表れである。論理的な結びつきを求めんとする思いの奥に、この承認欲求のどうにもならない暴走が在るのだ。言葉遣いにその人格が顕れることは、経験的に知られている事だ。文学では、そのことを文体(style)と呼び、言葉に身体性を担わせることで、書き手の思いと書き手の言葉に一致点を見出そうとしているのである。

 私の願いは、言葉があらゆる行為、思惟、欲望、意識の根源的表象になることである。何を為すべきで、何を為さぬべきかを言葉で表し、どのように考え、どのように関連付け、どのような価値を見出すかを言葉で表現し、何を求め、何を斥けるかを言葉に落とし込み、言語という記号性を意識の隅々にまで浸透させ、意識の存在が想定されると同時に立ち現れる無意識という存在の朧げな輪郭を、集合論的に浮かび上がらせたい。言葉とは自己を知り、他者を推し量るための道具であるが、私はこの道具と自己の在り様を出来る限り一致させたい。

 作家とは、恐らくこのような言語空間を生きている人間のことで、しかも言語空間から生活空間までの通路を自らの力で発掘した稀有な才能の持ち主であるのだろう。作家とは言語と世界の通路を掘る者、即ち、diggerである。diggerの字義は、掘る人間であり、掘る動物掘る道具掘る機械である。作家は、時に人間離れしたものを書く。それは彼が変形して、言葉そのものになったことの証である。

 作家と対照的な人間は誰だろうか。実践家であろうか、哲学者であろうか、宗教家であろうか。

 実践家は、作家にも成り得る。彼彼女にとっての実践空間とは、即ち、彼彼女の能力と技術が及ぶ範囲であるからだ。また、実践家は、恥や外聞を気にせぬまま己の良心に従うというようなモットーを掲げている事が多い。(モットー(motto)とは、座右名、標語、処世訓などを現すイタリア語由来の言葉だ。ちなみに政治的な標語はスローガン(slogan)と呼ばれ区別される。)だから、言語空間に身を置くことも、世間に身を置くことにも、己の身体一つで果敢に飛び込んでいくのである。作家が、どちらかというと世間から隠れるように言語空間に潜むのとは対照的である。実践家とは、特別な業種を指すものではない。実践家のの有る者を指すだけである。実践家は頻繁に自説の思想性を説く。いかに思想が重要であるかを認めさせる。時に自らを思想家であると言って憚らない。では彼は何処までも自由かと問われれば案外そうでもなく、思想の党派性に絡めとられている事も多い。無頼派アナキストダダイストも、非・党派的という補集合的な定義に過ぎない。孤独な無頼派、孤立したアナキスト、唯一無二のダダイストの存在はおおよそ社会的に認められない。彼はきっと嘲笑の的になり、異端と見做され、排除される。成功する実践家は、自説を押し通すための我の強さを持ちつつも、調停するための相談役や、下働きをする弟分を沢山抱えているものだ。斯様にして、実践家は渡世術に長けている。

 では哲学者はどうかと言えば、作家をもっと極端に推し進めたものと思われる。彼はもはや世間でも、言語空間に於いてすらも、賞賛を求めない。彼に残されたのは己の思索を続ける営みだけだ。彼の人間関係の範囲はどこまでも小さく、どこまでも軽く、線状ではなく点描である。繋がっているように「見える」だけで、内実は、その本人でさえ不明瞭なのである。なぜ彼は自分の城に閉じこもるのか。世間が怖いのか。他者が怖いのか。それは本人もよく分からない。よく分からないからこそ、彼は考える。ここに彼の自意識の強さ、頑強さがある。徹底的に考え抜く知力の持ち主こそ、哲学者である。

 宗教家はどうであろう。彼らはまず孤独ではなく、集団的である。また、彼らの内部には大いなる葛藤がある。それは果たして私たちが為しているこの行為に絶対的な善さは求められるかどうか、という問いだ。彼らは例えば壇上に上がって講演する。聴衆の前に立ち、考えを述べる。それは意志表明というよりもむしろ、他者の意志を変革しようとして話す。此処に於いて葛藤が産まれる。果たして私の言葉にその力はあるか。私にはこの言葉を語る資格があるか。この葛藤と向き合うために参照されるのが聖典である。聖書やコーランや仏典である。または諸先輩の生き様である。またはその集団が自ら規定する内規である。この内密性はしばしば社会問題になる。世俗から分離したことによるストレス、所属する集団・組織からのプレッシャー、この境遇を自ら進んで選択してしまった、どうにも引き返せないプレッシャーなどを抱えて彼らは生きている。かれらは社会、組織、自己の三重の罰を自らに課していることになる。推測するに、宗教家はとことん真面目な人種である。その真面目さを支えるのは、更に強靭な倫理観であろうか。他者への配慮だろうか。人類愛だろうか。深淵なるものへの絶対的な帰依心だろうか。いずれにしても、宗教家は実存に目が向いているようだ。言葉の重みと軽さを自在に操ることができるからこそ、彼らは、種々の儀式を執り行うことができる。言語空間―儀式空間―生活空間と、彼ら宗教家は自在に自己を移動することが出来る。このmobility(可動性、移動性、易動性、流動性、機動力)こそ本質であるのか。

 当初の私の願いを思い出そう。私の願いは、言葉があらゆる行為、思惟、欲望、意識の根源的表象になることである。私は、言語中心主義である。それはロゴス中心主義とも多分に重なるだろう。脱構築主義者はロゴス中心主義者を批判する。奴等は歴史的に発見された世界の解釈を我が物の様に扱い、まるで自分がその発見者のように振舞い、著作権を侵害し、権威の威を借る狐として振舞うのを自覚しないままに、意味ありげな表象を造形し続ける自己欺瞞的な人間である、と。一言でいば、反省せぬ者である。反省とは、歴史として語り継がれた物語を顧みぬことである。歴史とは個人史、家族史、郷土史のような「語り手=私」を中心とする「小さな物語」と、より大きなスケールの国史、世界史、人類史、文明史のような「大きな物語」に分けられる。また、歴史として記述されていない事象も数多くあるだろう。歴史とは勝者の言葉である。敗者、殺された者、殲滅された者の記録は凡そ消えて無くなっている。反省せぬ者とは、歴史に残っていない事象を、亡き者、無かった事として簡単に葬り去る者である。即ち、想像せぬ者である。反省と想像。この二つの働きを無くして、言語中心主義は成り立たない。反省とは事実中心主義であり、想像とは解釈中心主義だ。事実を鑑み、解釈を重ね、自立を図る。そうだ、何故にこの営みを続けるのか、その根本的な理由は、独立自尊の精神を保つためである。これは精神の自立性が身体の相互性によって担保されるのを否定しない。他者無くして自己は存在しないが、それは同時に、自己無くして他者もまた存在し得ない、ということだ。他者を自立させるためにまず自立する。自立した者同士の関係性を重んじる。他者依存からの脱却、これは私の生涯をかけた一大事業である。

 自立への欲望。この裏返しが、言語への帰依心だったわけだ。言語とは確かに他者ではない。他者から身体性を抜き取った後に残る何か、文字、表記、音声、声、叫びである。私は多分宗教家ないし政治運動家に憧れているのだろう。神やイデオロギーの言葉の強度に憧れているのだ。強い人間には憧れないが、強い言葉、強い音、イメージ、表象に憧れる。ここに私の幼稚性を見てもいい。強度への同一化を図ろうとするのは、同じ絶対値を持つベクトルが自己否定に向けられているということだ。なぜ私は自分の内部にそれほどの弱みを見つけてしまうのか。私の弱みは、それほどまでに、神やイデオロギーを必要とする程度に弱いのだろうか?または、神やイデオロギーを必要とするくらいに、弱さが露呈した経験(即ちトラウマ)があるのだろうか?それ程までに、取り返しのつかない許されざる罪を犯したのだろうか?無意識の作用で抑圧されて表出しないだけで、私の中に潜んでいる罪悪感や罪責感や穢れが、私の与り知らぬ所で、私の意志と私の行為のプロセスに於いて負の影響を強く及ぼしているのだろうか?

 私は自分のこと未だよく知らない。それは言い切ってよいことだ。個人史的なアプローチはある程度功を奏したが、確信にまでは至らなかった。それは解釈の循環に陥り、差異を無限に生み出すだけだった。差異の固定化を拒もうとする自分の存在を見つけただけである。文学に己を見つけようとしたこともある。聖典の中に、神話の中に、小説や、自伝や、主義主張の中に己の価値観を求めたこともある。教養主義に陥ったこともある。または、家族や友人、子弟、師弟、職場などの人間関係の中に自分の位置を求め、与えられた役割(仮面)を積極的に取り入れようとしたこともある。だが、それも己の求めたようには内部に定着しなかった。結果的に何度も挫折し、自暴自棄に陥ったこともあった。虚無的、厭世的、絶望的な状況に意図して身を置いたこともある。しかし、絶望感も私の内部に遂に定着しなかった。絶望すら私を完全に捕らえることは無かった。

 そして、問いだけが残った。私とは一体誰であるのか。何者か。問い続ける者の言葉を求めたいと思った。希望を求めたいと思った。解決を求めるのではなく問う姿勢を保持し続けることは、十中八九良いことだろうと思った。他者を傷つけまいと希望したい。他者を助けたい。問いと希望を保つ。それは、同時に、独立自尊の精神を養うことへの実践的欲求を要請するのだ。(了)