Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

音楽とは薬

 中学二年生の夏、私の人生の転機が訪れた。一つは、MD・CDプレーヤーを買ってもらったことだ。パナソニック製で、一度に5枚のCDを内蔵でき、リモコンで好きなCDを再生することが出来る、当時の無知の私にとっては夢のようなマシーンであった。そこから私にとって、帰り道にTSUTAYAに寄ることが日課になった。なけなしの小遣いの全てを、CDレンタルと録音用のMD購入に費やした。その年の暮れ、ポータブルMDプレーヤーをお年玉で買ってもらい、これもまた夢のようだった。それからは何処に行くにも、MDプレーヤーと、"my favorite vol.XX"と名付けられたMDをサイド・ポケットに忍ばせて歩いた。それから14年経ってMDもすっかり廃れてしまい、CDなど誰も買わない時代になった。MDプレーヤーは、今も尚、パソコンのアンプとして立派に機能している。しかし、近い将来、動かなくなるだろうと思う。それは仕方のないことだ。

 あの当時、のめり込むように、全身の体を音で浸透させるように、息をするのも忘れて音楽を聴いていたのを思い出す。それはきっと救いを求める様な、祈るような姿勢だったろう。滑稽でもあった。麻薬中毒者の様に、毎日毎日、繰り返し聞き続けた曲もあった。自分が偉くなったような気がした。周りの大人が馬鹿に見えた。無論、同級生など私の足元にも及ばない。あの高揚感は、なんだったのだろうか。

 J-Popとは、その意味で、14年前から現在にかけての私にとって、心の栄養であり、恵みの時間であり、魂の救いである。私の全存在を賭けて、歌手に託すのだ。ギターやドラムやキーボードや電子音楽の生み出す振動音に、グルーブ全体と一体となる。つまり、大袈裟になるのだ。感傷的になり、泣きだしたくなり、体を動かしたくなり、孤独になりたいと思わせる。世界を呪い、突き放し、接点を見つけ出し、救われる。生活空間が劇場化する。なんでもない風景が、私の前に迫ってくる。意味を持ち始める。エッジが立つのだ。色がビビットになる。または、自分が主人公でなくなる。主人公でなく、歌手の声の一部になり、音の世界の部分として、歯車として、要素として還元される。J-Popとは、化学の時間に習った「触媒」のようなものだ。自分の凝り固まった気分や嫌な出来事を、淡い思い出や次の一歩の礎に変化させる。聴いた後に前向きにならないような音楽は、決してJ-Popとは言えない。

 誤解してほしくないのは、聴いた後にどんよりしたり、絶望的になったり、更に攻撃的になったり、性的興奮を覚えたり、訳の分からない不快感を覚えたり、死を前景化するような音楽の存在を疑ったり、否定する意図は毛頭ないということだ。こういう音楽を必要とする時は、これまでの人生で何度もあったし、これからも必要になるだろうと思う。次に挙げる曲はまさに私を、ある意味で、掬い上げてくれた曲だ。

 

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絶望的な気分の時は、目の前の崖から落ちないように、体をのけ反らせ、死の恐怖を感じさせ、ひるませ、後ろに歩ませるような曲を聴く。

反対に前向きになりたい気分の時は、目の前の川を飛び越えられるよう、元気になり、勇気が湧いてきて、幸福が降ってくるような曲を聴く。

前向きにもなりたくないし、かといって全然絶望もしていない、自分でもよく分からない不安に襲われるとき、そういうときは、歌謡曲よりもグレゴリオ聖歌の方がいい。若しくは、無音を聴く。波のざわめきや、暖炉でパチパチと木炭が弾ける音、そうしたヒーリングミュージックを聴く。

 

こうして私は、J-Popによって勇気づけられ、オルタナティブ・ミュージックによって踏みとどまり、聖歌とヒーリングミュージックによって癒される。音楽とは、薬だ。