Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

And you don't stop.

 集中力を高めることは、意志の力を証明するようなことで、自己との闘争であるように思われる。こうした前提は、大抵の場合、虚偽である。前提を否定し、新しい視点を持って来て、左程代わり映えしない結論を導くのにも飽きた。集中力も、意志の力も、自己との闘争も、端から存在しないものと考えた方がいい。存在を想定するから、葛藤が産まれる。問題解決の方向性は、この葛藤状態にいかにして没入しないまま、葛藤状況を形成しないままに、葛藤など放っておいて、個別の仕事を元気よくメリハリを持って取り組めるかの具体的な方法論である。

 参考に、「葛藤」をブリタニカ国際大百科事典で引いて見る。

 

葛藤(conflict)

(1)心理学用語。人が二つの同程度に魅力的な(あるいは同程度に嫌いな)選択肢の中から一つを選ばなければならない状況。このような葛藤は基本的には次の三つの型に分けられる。(a)接近・接近型 海水浴にも行きたいし登山もしたいがどちらか一つを選ばなければならない、(b)回避・回避型落第もしたくないし勉強もしたくないがどちらかを選ばなければならない、(c)接近・回避型 ふぐは食べたいが命は惜しい、というように対象がプラスとマイナスの誘発性を同時に持っており、その対象に接近するかどうかを決めなければならない。

(2)精神分析学用語。本能的欲求(イド)とそれを抑制しようとする超自我との間の対立などを指し、これから生じる不快・苦痛な感情状態を神経症発生の主要な原因と考えている。

 

 ここで更に三つの用語が登場する。誘発性、イド、超自我である。これらも見てみよう。

 

誘発性(valence; Aufforderungscharakter)

心理学用語。誘意性ともいう。外界の対象または生活空間内の特定領域の持つ特性。K. レビンの用語。それが人を引き付ける場合は正、反発させる場合は負の値を持つと定義される。

 

イド(id; Es)

エスともいう。S. フロイトが提唱した精神分析の用語。精神分析では、人間の精神構造をイド、自我、そして超自我の三つの領域ないし機能に分けて考察する。そのうちイドは本能的衝動(リビドー)の貯蔵所で、快感原則に従って快を求め不快を避ける機能を有するとされる。したがって自我や超自我と葛藤を起こす。

 

超自我(superego)

精神分析の用語。パーソナリティを構成する三つの精神機能の一つ。快楽追求的なイド(エス)と対立して道徳的禁止的役割を担うもの。5~6歳ころ、両親の懲罰が内在化して、みずから自分を禁止するようになることと、その後の両親その他の価値観への同一視を通じて形成される。良心に近いがより無意識的に働くとされる。同様に自我理想も良心に近いが、超自我とは反して積極的な側面を持つ。

 

調べれば調べるほどに、分からなくなる。事典の迷路であるが、もう少し進んでみよう。生活空間、内在化、同一視とは何だろう。

 

生活空間(life space)

K. レビンがその心理学の理論の中で提出した概念。ある時点において生体の行動を規定する事実の総体およびそれに対応して生体の内部に成立した世界をいう。これは大きく人と環境の領域に分かれ、さらにそれらが個々の細かい領域に分化する。生体の行動は、その間の力学的な関係によって形づくられた心理学的場によって規定されるとする。

 

内在化(internalization)

心理学用語。内面化ともいう。心ないしパーソナリティの内部に、種々の習慣や考え、他人や社会の規準、価値などを取り入れて自己のものとすること。十分に内在化(内面化)されたものは、もはや他から受け入れたものとして感じられなくなる。子どもは発達の過程で、両親や周囲の人々ないし社会の習慣、考え、規準などを内在化し、やがてそれを自分のものとして行動する。精神分析上の超自我は両親のもつ規準の内在化したものと見ることができる。

 

同一視(idenfication)

特定の事物、事象を何らかの、またはすべての面で他の事物、事象と同一であると認める働き。事物、事象間の同一性に関する知覚。また特定の事物、事象に関して、所定のクラスに分類するための属性を再認する働き。

 

  さて、ここまで調べてみて分かった事とは、葛藤とはまず心理学的な側面と精神分析学的側面の二つに分かれることである。前者は、K. レビンの提出した「生活空間」という心理学的場に於いて、「誘発」や、「内在化」や「同一視」などの力学的作用が働くという考え方である。一方、精神分析学は、S. フロイトの提出した「自我」「エス」「超自我」の三つ巴の構造を基調とした考え方である。前者が物理学的な合理性を求めているのならば、後者は神話的な記述性を求めているのだろうか。

 

 一度頭を冷やすためにも、最初にこの投稿を書き始めた頃の文章を挿入しよう。

 

問題解決の方向性は、この葛藤状態にいかにして没入しないまま、葛藤状況を形成しないままに、葛藤など放っておいて、個別の仕事を元気よくメリハリを持って取り組めるかの具体的な方法論である。

 

 そうだ。要するに、私は葛藤のことなど放っておきたい、そして、元気よく仕事がしたい。それだけだ。葛藤のことを放っておけない気がするのは、そちらの方に仕事よりも大切な価値なり意味があるような気がしたからだ。そして、ほんの少しばかり事典を引いてみて、私よりももっと本気で考えた人間が既におり、その代表者が、K. レビンとS. フロイトであるのを知った。特にレビンの「生活空間」という概念は斬新だった。フロイトは心を人格の物語の語り場として捉え、レビンは知覚する世界を生きた物理空間として捉えた。どちらの方が真理に近づいているのだろうか、またはどちらも遠のいているのか、私はそれを判定することは出来ない。しかしながら、私だけが葛藤に悩み、苦しんでいるわけではないことを知れただけで、少し安心した。付け足せば、どう足掻いても葛藤から完全に抜け出すことは不可能そうだということだ。生活空間からも、三つ巴構造からも、誰も彼も抜け駆けは出来ない。

 葛藤について考えることは、自己について考えることにも連なる。仕事に取り組むことも、しかしながら、他者を通した自己について考えることである。私とは何者であるのか。つまり、この大きな問いからは、そう簡単には逃げることができないということだ。問い続ける。問いを止めない姿勢。結局、いつもと同じ結論だ。