Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

修士論文という孤独

 私は孤独だ。研究しているのだ。音楽と格闘する。何を言っているのか分からない。何を伝えたいのか。俺は英語が得意だった。しかし、それは既に回答が与えられている英文を、しかも大切なところに下線を引いてくれていて、そこを訳すだけでよかった。今は違う。孤独である。つまり、本はあっても下線部は引かれていない。別冊の解答もない。問いは自分で見つけ、答えを自分で想定し、想定した答えを自分で確認し、その過程を論文という形式に落とし込んで発表せねばならない。そして、きっと私の論文は正当に評価されない。正しく理解されない。つまり、孤独は解消されない。文学研究は孤独を癒さない。寧ろ孤独を深化させる。真に孤独になると、途端に作品が分かるような気持ちになる。孤独は、だからこそ、研究に於いて必要条件である。少なくとも、私にとって。

 働くのは楽な事じゃない。それは知っている。時に楽しいことがある。大抵は辛い。人間関係の悩みは生きている限り続く。人間関係の束縛から解放される頃には、体は軋み、心臓は疲れきって、明晰な思考が失われているかもしれない。役立たずな人間のまま世間で生きて行くのは辛い。しかし、早々とリタイアして、臍を噛みながら過去に囚われて生き続けるのも相当に大変だ。孤独であることも、集団的であることもできない人間は、一体どうすればいいのか。死。死のことを考えずにはおられない。なぜ死ぬのか、ではなく、なぜ生きていなければならないのか。そちらの方が、切羽詰まった問題である。これは問いではない。解決せねばならない問題であり、処理案件である。

 親。兄弟。友人知人。恩師。親戚縁者。地域の人たち。同僚。上司。取引先。結婚すれば、自分の家族。または向こうの親戚縁者。少し考えてみれば、人間が一人では生きて行けないよ、というお説教も、強ち嘘ではないような気もする。確かに、人間は独りだけでは生きて行けない。孤独とは、生の否定である。孤独に生きたいとは、その意味で矛盾した生き方である。しかし、人間がそもそも矛盾した存在で、人生が矛盾を既に内包しているのならば、孤独を愛しつつ生きんとする人間の気持ちも、共感できるはずだ。

 人間とは、人生とは、暮らしとは、働くとは、考えるとは、研究とは、家族とは、結婚とは、子育てとは、貢献するとは、社会とは、世界とは、そして何よりも大切な問いであるはずの、死とは何か。死は、これらすべての現象を一掃してしまうようにも思われる強大な力を有しており、ブラックホールの様になんでも飲み込んで無に帰させてしまう、人知の及ばない深淵なる存在(非存在)である。死とは観念ではない。死とは実在でもない。現象でもなく、実在でもない、観念でも、表象でもない。死とは私の存在を超越した、非名詞的な存在である。つまり、人でも物でも事でもない。脱・名詞的と言った方がいいのか。概念や範疇の枠の外に在ると規定される、脱・規定性を持つ。

 よく分からない。よく分からない何かが、しかし、確かに私に到来し、それは明日かも知れず、10年後かも知れない。5W1H(What, Who, When, Where, Why and How)の内、「死」について私が認識できることは唯一、Whoだけである。誰に「死」が訪れるのか。それは疑いようがない。私にだけである。後の「何が」「何時」「何処で」「何故」「どの様に」して、「死」が、隕石の様に振って来るのか、全然見当も付かないのだ。それを恐怖と呼ばずして何なのだろう。宇宙論的恐怖と呼ばれるのも、なんとなく分かる気もする。または、死の恐怖が、死前死後の物語(神話)を創作させる意欲の源になっているだろうと想像してしまう。