Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。Peace.

心と体の管理・保護

 自制心を持ちたい。過剰な好奇心、物事に対する異常な執着心、過去への囚われや怨恨を退けたい。没頭する頭、動き続ける手足、止まらない体を、一度静止させ、中止させ、停止させたい。また、逃げる頭、弛緩した手足、死んだように冷たい体を、集中させ、伸縮させ、温めてあげたい。つまり、ゲーテの言うとおり、急ぎ過ぎず、しかし休み過ぎず、である。

 私には「成功」や「真理」や「幸福」が眩し過ぎる。それは今日の私には余りにも明るくて直視出来ない。希望。それは普遍的な善さではない。時に希望とは狂気に変わるのだ。確率論的に実現不可能なことがこの世にはある。全てが可能では、ない。希望しかない者は死の淵に向かってまっしぐらに突入して行く。余りにも英雄的であるし、物語仕立てであり、馬鹿馬鹿しくもある。

 何も求めず、ただ生きることは善いことだろうか。自他の幸せを願わないままに、この世を歩き続けることは可能だろうか。金も異性も地位も名誉も、ありとあらゆる現世的な幸福の一切を唾棄することが可能だろうか。その「可能性」とは、形式論理学における可能性ではなく、私という生身の肉体から一寸も離れることなく、私の今ある煩悩の組み合わせを以てして可能かどうか、そこが一番問題である。私以外の誰彼にとって実現可能な生き方を知った所で、一体私に何の役に立とうか。

 今すぐに実現可能でないからと言って、将来の暮らしを諦めることは得策でない。今私は、知識が欠乏しているのではなく、知識が知識として正しく認識されていないのだ。知識とは知識量の事ではない。整理整頓され、体系化され、有機的な組み合わせが可能かどうか、そこが知識の要だ。知識とは死んで行った者たちの言葉のみを指すのではない。今生きている人間(自分も含む)の言葉も、知識になり得る。知識とは完全である必要はなく、日に日に更新されるものだ。知識とは脳味噌や感覚器官や神経細胞のことだけではない。知識とは物にも、場所にも、時間にも宿るものであり、それをキャッチするのは体全身である。髪の毛から足の爪先まで使うのだ。人間は生まれる以前から宇宙の果まで心を使って想像できるのだから、その「特殊」能力を使わない手はない。体と心を十分に「行使」する、または能力が発揮できるよう「管理・保護」する。それが、今の私の願いだ。