Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

ブログという営み

 なんだかよく分からないけれども、今日は沢山書けてしまう。といっても論文ではない。こんな日記読まれるはずがないと思って居たが、驚くべきことに、既に2500回も私のブログの何れかの記事が閲覧されているのだ。2500という数字を大したことないと思う人も多かろうと思うが、私にとっては、信じられないことである。是非会って、お話してみたい。どんな感想をお持ちなのだろう。残念ながらコメントは一件だけ、否、一件もある。中島義道氏のカント塾についての投稿だったが、塾生の方と思われるが、是非メールを送って見たらどうか、という励ましの内容だった。(そして、送って見たのだが、未だ返信来ず。残念。)ネットの世界の住人は、氏名も顔も素性も知らないアノニマスな存在だ。それゆえ悲しい事件も起こる。しかし、こういう励ましの言葉をくれる人も実際に居るのだ。これは、見逃すべきでない。思想書哲学書をいくら読んだって、いくら筆者に問いかけたって、とっくのとうに死んでしまっている。今研究しているラッパーたち、2PACやBiggie Smalls周辺の人たちは、残念なことに亡くなっている。(ラッパーは早逝が余りにも多すぎる)だが、このブログは、誰か生きている人たち、まだ死んでいない人たち、如何様にも変化できる人たち、会話可能、交信可能な人達が暮らす世界だ。いつだったか読んだ本に、女子中学生の女の子が自分のHPを作成して、彼女はリストカッターなのだが、その書き込み欄の住人達との交信を日々の生き甲斐に感じ、最期、独り、カラオケボックスで大量の睡眠薬を飲んで亡くなるのだが(今思い出したが、南条あやさんというお名前だった)彼女の死後も、彼女の遺族が未だにHPを保存し、当時のまま、彼女の文章を残して、ネット住人たちの支援によりそれが出版されたという話を思い出す。生きている人間のことばは、発信され受信される。しかし、出版物となった文字には、もはや、その息吹の何分の一くらいしか命が残っていない。ブログ上の遣り取りとは、直接会って、珈琲を飲みながら、食事をしながらする会話や議論と異なる。また、手紙や電子メールやLINEといった、顔や性別や素性がある程度認識できる者同士の、しかも「即返信」が暗黙のルールになっているような媒体とも異なる。先週、先月、半年前、二年前、五年前、十年前に書いた文章を、今この瞬間に読んだ人間に伝わり、読んだ人たちの幾人かが、コメントを残す。伝わるか、伝わらないか、それは問題外なのだ。私はこう感じた。その印象を忘れないために、またひょっとしたら読んでくれるかもしれないという期待を沿えて、遠慮がちに、細やかに営まれる。それは美しいと思う。

 ブログとは、私が出会った媒体の中でも、最も美しい交流の仕方だ。いつも読んでくれる方々、ほんとうにありがとうございます。