Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

対置の方法論

 哲学や思想、宗教、学問と呼ばれる人類の叡智の結晶のような形而上学の荘厳な論理の構築物やそれを支えてきた伝承機構がある。その対極に、最下層の貧民窟の生活、奴隷貿易の悲惨、被差別部落の実態、戦場の狂気、異教徒への迫害、中世末の魔女狩り、無差別殺人、ナチスによるユダヤ人の殺人工場、そしてアメリカによる広島・長崎の原爆などなど、人類二万年の歴史が背負う筆舌に尽くし難い状況、状態、現実世界がある。対極を見れば、なんとまあ人間という種族の愚かなことか、下劣で低俗で、身勝手で、欲望の塊、獣にも劣る畜生だと断言したくなる。その一方で、書物を紐解けば、なんとまあ人間の想像力の逞しいことよ、言葉の創造性の素晴らしいこと、物語の美しいこと、論理に賭ける情熱の凄まじいこと、救いを求める人間の弱さが逆転したときの力強いこと、などに思いが至る。ふむ。きっと、このような思いは誰しもが持つのだろう。昨晩読んだ、勢古浩爾氏の『思想なんていらない生活』(ちくま新書)の最後にこう書いてあった。

 生は複雑だが単純だ。死は冷酷だが寛大だ。ひとは愚劣だがあたたかい、か。(279)

 まさに当意即妙な素晴らしい文章である。対極の思考から導き出された、人間性への最期の期待である。漂い続けることを止めない、しかし絶望の淵で踏みとどまる人間の勇気と覚悟の文章である。わたしはこういう文章が書きたいと思う。

 対置するためには、方法論が要るようで、要らない。効率を目指すべきであるが、目的化しないためには、効率を忘れねばならない。originalityを求めて、他人の作品を参照するのは矛盾のようで矛盾でない。問いを自分に差し向けつつも、世界に視野が広がっているのが人間だ。人間は誰かに認められたい生き物だと言うが、果たしてそうか、と自問する生き物だ。疑いなく断行するべきときにすら、断行する直前に踏みとどまって「果たして」と疑うことができるのが人間だ。意識がどこかに向かう時、意識のベクトルは絶えず、反対方向にも共時的に進んでいるのが思考の在り様だ。相手に優しい言葉を掛ける時、その言葉は自分の胸の奥にも共鳴する。意識とは時間とは性格が異なり、一本の槍のように進まない。スポイトでプレパラートに水滴を垂らす様に、波紋を広げながら、外へ外へと、浸透の原理に従って瞬く間に広がる・・・・・なんだか眠くなるような話だろうが、私の考える対置法とは、意識についての話と同義である。

 意識とは何か。世界とは。そういうターム論は、私の大好きな「趣味」である。が、あまり多くの人は好まない。一体この話がどこに進んでいるのか分からないので、不安になり、直ぐに飽きが生じる。「なにいってんだこいつ」と脳内で(時には口に出して)呟くに違いない。退屈だなあ。そう、思想や哲学や議論とは、退屈である。少なくとも、私に関して言えば。面白く思想を語ろう、生きるのに為になる講演を聴こう、考えるツールとして哲学を学ぼう。すべて半分、真実だ。残り半分は嘘っぱちだ。なぜ、みんないいことばかり聞きたがるのだろう。暗い、陰湿な、陰鬱な、退屈な、どうでもいい、気持ちの悪い、よく分からない、難解な話を聞かないのだろう。私は、正直に言えば、明るい話も暗い話も、公明正大な人間も陰湿な人間も、興味深い体験も退屈な体験も、快感をもたらす映像も気持ちの悪い映像も、よく分かる議論もよく分からない議論も、簡明な映画も難解な映画も、両方、同じ程度に、同じ方法論を用いて、同じ接し方を以て、対峙したい。

 分かってくれるだろうか。意味や価値や判断やらを、私の内部に持たせたくないのだ。なぜなら、必ずそれは間違いの素になるから。無論、どうしたって、印象は残る。印象しか残したくない。そして、その印象を言葉にしたい。印象とは、感情であり、感情から出る言葉は感想である。言葉を介してしまうからには、印象は歪曲されるだろう。絵にしたって、造形にしたって、媒介させることには変わりない。だから、心象を大事に記憶することがまずなにより大事だ。それは忘却の作用が加わり、変更され、解釈される。忘却の程度は、つまり、過去の自分がどれくらいその心象を大切に思うかによって決まる。うーん。だんだん分からなくなってきたが、要するに、私は「第一印象主義」なのだろう。ぱっと見、ぱっと聞き、さっと分かる。それを、まず大事にして、その上で、対極的な事象や事物を参照して、解釈に変化をつけていき、最後の最後まで自分の内部に大いなる意味とか、大義とか、価値とか、決定基準などを持たないまま、表層を滑っていきたい。というのも、こういう大仰な、こけおどしの言葉(専門用語)にほとほと疲れてしまったからだ。言葉で言葉を調理する空しさ、蛇が自分の尻尾を齧るようなグロテスクさに、生理的不快感を感じ取るようになってしまった。

 今日はもう終わり。