Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

考えるために考えないということ

 自分を癒し、整え、快適にするためのレッスンとして、まず「考えるために考えないということ」という提案をしたい。しかしその前に考えることと考え方について考えてみたい。

 考えることを二分すると、①簡明なことと②難解なことに分けられる。①と②の区別は自然に、瞬時に、自動的になされる。誰に?自分自身によってである。誰かが①だと言っても、私には②であるということは沢山ある。

 ところで、考え方の方も二分すると、Ⓐ通時的・歴史的な目線とⒷ共時的・同時代的な目線の二つに分けられる。換言すれば、前者は、文系目線、老人目線、ことば依存的であり、後者は、理系目線、若者目線、道具依存的(ことばも道具には違いないけど、そこは大目に見て)という感じである。要するに以下のような組み合わせが出来上がる。例を付けて、列挙してみよう。

 

・①ーⒶ:現在当たり前に思われていることを、昔の人ならどうかな、と問う。

・①-Ⓑ:現在当たり前に思われていることを、理科系頭で実験検証考察する。

・②-Ⓐ:昔からよく分からないことを、大昔の人はどう考えたか知る。

・②-Ⓑ:昔からよく分からないことを、最新の実験データを参照して考えてみる。

 

 大体こんな感じだろう。倍々ゲームで幾らでも増やせるが、四つくらいがちょうどいいので止めておく。

 提案に戻ろう。「考えるために考えないということ」と矛盾した言い方をしたのは、即ち、考えるモードを選ぼうと提案したかったからだ。つまり、何かを考えるとき、その考え方に悩んで落ち込んで、結果解決しないままにして、問いすらも放棄してしまい、遂に自暴自棄に陥る(経験談)のを未然に防ぐためには、考え方を考え始める前にいくつか用意して置いてそれに従って考えてみよう、と言いたいだけの話。考える手続きにおいて起こり得る大失敗とは、自暴自棄である。それさえなければ問いは生き残る。問いの生存を維持するための、生命維持装置としての考えるモード選択である。

 人は悩む。悩み続け、悩み続け、いずれ問いを放棄する。または、辛うじて出した答えに縋りつく。時にはその暫定的な答えを最終的なそれと錯覚する。問いを問いのままにしておくことの方が、絶えずとは言わないが、大半の場合、安全であり、またそのような自身の不甲斐なさ、無力さを引き受ける方が、実際上、困難である。そして、私にとって「素晴らしい人間」とは、「毎日、より困難な方を想定し、吟味し、賢く選ぶ人間」である。

 祖母に言われた言葉を思い出す。

 変えられるものを変える勇気、変えられないものを受け入れる忍耐、それを見極める賢い目。

 キリスト教の教えらしいが、私にとっては、祖母の言葉だ。引用は後付けに過ぎない。祖母がこの言葉に感銘を受け、孫に伝えようと思い、それを私が受け取った。だから、決して忘れないように日々思い返すようにしたい。

 

 ほんとのほんとに、これで今日は終わり。