Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。Peace.

当然なことについて

 『西部邁ゼミナール』がYouTubeから削除されてから、お風呂の時間に聞く「教養講座」的な聞き物がないか探して、科学者の武田邦彦さんが毎日10分程度の配信をなさっているのを知り、ここ一ヶ月聞き続けていている。それにしても、私は何故こんなにお爺さんお婆さんの声が好きなのだろうか。落語家にせよ、教授にせよ、著名人にせよ、老成した声が訳もなく好きだ。

 ところで、武田邦彦さんの提唱する健康的生活とは、①楽観的、②無理をせず、③ストレスを溜めない、だそうだ。反論する気も起こらないくらい当たり前のことだ。他につけ足せば、好きなものを美味しいと思いながら食べる、やったことないスポーツに挑戦する、ラジウム温泉に入って免疫力を高めるなどを勧めておられた。武田さんは、つくづく「当然党」な人だなあと思った。

 「当然党」とは、今私が作った造語だ。当然第一主義、当然教徒と言い換えても左程違いは無い。認識や判断や価値や意味といった大問題を考えるときの前提(西部先生はprescriptionという言葉を使っていたけど)を、「当然」に求める態度のことだ。では、当然とはなんだろう。「そうなるのがあたりまえであること、道理にかなっていること。」と辞書にある(デジタル大辞泉【当然】より)「道理」とは、「①物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道。ことわり。②すじが通っていること。正論であること。また、そのさま。」(同書【道理】より)よくヤクザの人たちが使う、「任侠道」とあまり変わらない、のか。「スジ通さんかい!」とドスの効いた口調で叫ぶ科学者や思想家が私は好きなだけだ。私は老人のリアルな叫びを聞きたい。

 当然なことが当然に行われない時、老人は内心怒り狂う。当然の配慮、当然の扱い、当然のサーヴィスなどが付与されない時、老人は内心怒り狂う。怒りを面に出すことが当然控えられるべきだ、という常識もあるので、老人の沸騰した怒りは、自然、言語表現となって曝け出される。私が聞きたいのはまさにその怒りである。普段の生活では、怒り方を知らない「暴走老人」は居ても、怒りを言語表現に落とし込み、論理的な筋道に沿って相手に正確に気持ちを伝える「論理老人」には、なかなかお目に掛かれない。「論理老人」とは、ノスタルジーにどっぷり浸かって、時事に疎く、思い出話しかしない「望郷老人」とは異なる。「論理老人」は、もっとアグレッシブなのだ。世間に対してではなく、内面での葛藤状態のことだ。