Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。Peace.

論文人間

 別に、自分の素性がバレてもどうってことはないのだ。失う物、守る物、棄てる物も己の身体以外何もないのだから。裸一貫である。わざわざこんなブログの書き手の何者かを詮索する物好きも居ないであろうから書いておく。私は、或る地方大学の大学院の教育学研究科に所属している大学院生である。専攻は、英米文学であるが、貰える学位としては教育学になるのだ。だから、本来、私は教育学の大学院生である。修士論文の提出期限は来年の2月10日に迫っている。私はいま焦るべきなので、このブログも一日一回の投稿頻度に減らそうと考えている。ああ、論文早く終われ!

 で、私のどうでもいい自己紹介の後に話そうと思うのが、論文を書くことの困難さと愉楽についてである。表題も「論文人間」としたのは、単純な連想である。村田沙耶香さんの『コンビニ人間』をもじっただけだ。それにしても『コンビニ人間』は、素晴らしい作品だと思う。私の浅薄な読書遍歴を顧みても、確実に上位に食い込む作品だ。

 備忘録として、私のお気に入りに日本の男性作家を年齢順で挙げる(以下敬称略)。夏目漱石(1867-1916)、志賀直哉(1883-1971)、宮沢賢治(1896-1933)、梶井基次郎(1901-1932)、山本周五郎(1903-1967)、中島敦(1909-1942)、太宰治(1909-1948)、筒井康隆(1934-)、沢木耕太郎(1947-)、南木佳士(1951-)、鈴木光司(1957-)、磯崎憲一郎(1965-)、西村賢太(1967-)、女性作家を全く知らないので、村田沙耶香(1979-)は一強である。

 並べてみると分かるが、なんとも健康的な並びである。一人、三島由紀夫の名前が無いのは―川端康成も、谷崎潤一郎も、泉鏡花も、有島武郎も、武者小路実篤も無い―どうにも、私には美文調が合わないのだ。苦手なのだ。大袈裟だから。ヘミングウェイもあまり好まない。私は恐怖物語は好きなのに、英雄物語は好まない。生まれつきの女々しさからか。ああ、だから俺は少年雑誌(ジャンプやマガジンやサンデーやチャンピオン)が苦手だったのか。かと言って「日常系」も、大して好まないのだが。漫画やアニメーションの楽しさ、豊かさ、面白さ、技巧、文化が分からないのだ。日本人のクセに。私は唯、活字を好むのである。

 待った。何の話をしているのか。そうそう、論文の話だった。

 ところで論文も活字には違いない。活字好きなら、小説だろうが、論説文だろうが、エッセイだろうが、学術論文だろうが、新聞のコラムだろうが、ルポタージュだろうが、好きなはずである。無論、書き方の好みは分れるだろう。我が師匠、O先生によれば、好き嫌いの基準は読み手の一方的な思い込みで留めて置いてよい、そうだ。私は、かねてより、そうなのかなあ、読み手の方が劣っている場合もあるだろうにと思って居たが、最近になって思い直して、開き直るようにした。分からない物は分からない。面白いものは面白い。好きなものは好き。なんとなくいいなと思う物は、なんとなくよいのだ。例えば、私は、井伏鱒二さんの人となりが好きである。一方、氏の著作を読んだことはあまりない。しかし、好きである。こういう色好みが、読書では許される。逆に、村上龍さんのことは、あまり好きではない。『限りなく透明に近いブルー』の最初の十数項を読んで判断しただけである。何故面白くないのか、分からない。読んでいても、あまり頭に入ってこない。(むしろ、村上龍さんのトークは抜群に面白い。『Ryu's bar』とか、『カンブリア宮殿』とか、『Ryu's Video Report』とか)村上春樹さんなど、氏の著作を全く読んでもないのも関わらず、既にあまり好きでない。(これはハッキリ言って偏見以外の何物でもない)二大「村上」が好きでない日本の読者なので、どうしたって自分ははぐれ者だ。でも、それは仕方ないじゃないか。論文にしたってそうだ。嫌いな論文もあって当然だ。それは即ち、論者の眼の付け処が悪いのだ。視点が面白くない。書き方が凡庸。そうやって、私は、好き嫌いという生理的な感覚を研ぎ澄ませようと日々研鑽を積んでいる。

 こういうことも言えるだろう。私の文章が糞詰まらない、下らない、面白くない、と評価する人が必ずや存在するだろうということだ。この諦めは、私が書き手として成長した証だ。万人から好かれる様な書き手など、この世に存在しない。だから、私はもっと堂々と物を云ったり、書いたり、発言したり、言語表現に勤しんでよい、はずだろう。分からないことに対しては、沈黙する権利も、時には義務すらも、ある。矢鱈に知ったかぶりをするのは人に好かれない。かと言って知っていることしか喋らないのも、同様に、つまらないと見做される。全く、文章を書くという行為は、これだから面白い。何処かしらに、境界線があるのだ。言うとパッと花が咲くように明るくなることと、言ってしまっては台無しになることの間がある。その境界線は、独り言では絶対分からない。だから、発信する必要がある。ここを超えては行けませんよ、と人に言われて初めて気が付く。それでいいんだろうと思う。アインシュタイン曰く、

 

 どうして自分を責めるんですか?

 他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだから、いいじゃないですか?

(『アインシュタイン150の言葉』、株式会社ディスカバー・トゥエンティワン)

 

 論文の話をしたい。したいのに、頭がどんどん逸れて行く。考えるとは集中し、執着し、固執し、念頭に置くということだ。論文のことを考えるなら、それ以外のことを排除することだ。論文を書くとは、自分の意見が正しいと、読み手に認めさせることだ。論拠を簡潔に示すことだ。最低な論文とは、論拠の無い論文だ。独り言、妄想、空想、フィクションのような文章は、論文とは呼べない。または、既に人が発見していることを、自分の手柄のように持ち出して、権威付けしてもいけない。それは、ある程度仕方のないことだが、わざわざ自分の方から権威の傘を借りて這いつくばる必要は無い。東京大学出版だ、Oxford University Pressだ、Cambridge University Pressだと言って、怖気づくこたぁ、あんた、ないんだよ。敬意を払うのは、マナーの一つに過ぎない。間違っていると感じるなら、自分で論を張ればいいだけだ。それに最近は、ジャーナリズムだって当てにならない、権威も失墜したって聞くしねえ。誰も本当のことをしらない、っていうのは、世界共通の認識の根本にないと、結局、誰か物知り顔の人間の書いた言葉、思いついた言葉に縋りたくなって、自分でも何を言いたいんだがよく分からん文章が出来上がる。

 私の論文も、やっぱり、何処か間違いがあるんだろうと思う。独創性なんてこれっぽっちもなく、誰かの発想をこねくり回しているだけなのかもしれない。発見も無ければ、工夫も無く、視点も曖昧で、英語は出鱈目。こんなのでいいいのかなあと思う。ラッパーがどうしたこうしたって、一体全体、何の役に立つっていうんだ!

 論文とは役に立つのか。これは本当に重要な問題だ。精確な言葉遣いとは、人間の役に立つのか。一人だけ確実に役に立つとすれば、書いた本人だ。私の場合、修士号が貰える。就職活動の時に提出する書類に、一行「修士号取得」と書ける。それに寄るのか寄らないのか知らないが、自分の就活生としての下地が完成する。自分としても納得して、就活ができる(はずだ)。そして何処かしらに就職して、月給取りになり、なんやかんやあって、仕事を一生懸命して、努力して、生活を成り立たせる。あとは野となれ山となれで、家族やら家やら結婚やらだ。知らない。今はまだ分からない。

 もしこれが博士論文なら、博士号が貰える。もしこれが原稿なら本が出版できる。国会図書館に保存してもらえる。原稿料が貰える。著名な人から書評が貰える。知人友人から「おめでとう」と称讃される。「物書き」「研究者」「評論家」「批評家」という肩書が増える。もっと上に行けば、お偉いさんからお呼びがかかる。意見を求められる。判断材料として使われる。政治にまで関与する。そんな生活を五十年くらい続ければ、ひょっとしたら天皇陛下から勲章が頂ける、などなど。

 物書きとは、綱渡りのような状態だ。正しさを自分で証明することが原理的に不可能な職業だ。他者からの一方的な評価、売れ行き、その対価としての金銭、金銭の代わりとして地位名誉を与えられる。しかし、それらも全て勝手気ままな思い込みにすぎないじゃないか。きっと、売れっ子の作家はそう感じているに違いない。なぜ自分が斯様な評価をされるのか。決して自分には分からない。しかし、自分には物書きという仕事が合っていると思うし、それで生活が成り立つ間はこのままで行くしかないか。そういう意味で、月給取りより、緊張感がある暮しである。

 はあ、論文が頭から離れない。