Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。Peace.

努力の措定—ニーチェ邂逅

 これまで、幾度となく、性懲りもなく、飽きもせず、方法論の確立を目指して物を書いてきた。あらゆる行為に方法を見つけようと努めた。一日の動作を具に検証し、その善悪と美醜とを分け、より良い生活を送ろうと努めた。そう、私は努めた。努めることが、私の生活の基本に在った。それは、もはや否定し得ない現実味を帯びている。私の塊、それが、努力である。努力なしに私は存在することができず、努力が私の生活を形作っているのである。方法論に徹するときも、実践に徹するときも、努力する主体の私が存在しなければ、成り立たない。一生懸命に、情熱的に、命を賭してではなく、沸々と湧き出るような岩清水のように、鉱物の隙間から流れ出てくるような、清潔で静かで落ち着いた方法だ。それが私の善さであり、美しさだ。そう信じたい。信じよう。

 努力する人間は、皆美しく善い人間なのかと自問すれば、全くそうではない。私の人生を振り返れば、努力している時ですら、悪く、醜い時期が何度もあった。努力は万能薬ではない。努力は神仏ではない。努力すれば報われる訳でもない。寧ろ、美しさは、報われなかった後にもめげずに行う努力に宿るような気もする。まあ、これは状況次第だが。諦めるのも、継続するのも、同じくらい大きな覚悟が要る。

 努力とは、勝ち負けである。これもよく知っておかねばならない。努力とは、質であると同時に量であり、やったかやらないかのいずれかであり、心の姿勢であると同時に体への負荷でもある。努力とは、部分の集合であると同時に、結果だけでもある。努力とは、個人の自負でもあり、他者からの評価でもある。努力する人間の内的世界は、言明不可能な矛盾と混沌に満ちているが、その方法は完全な秩序と明瞭な言葉で書かれている。努力とは、円環構造であるし、単線構造でもある。努力とは、多分、複雑系(Complex System)であろう。簡単そうなのに、実はなんだかよく分からない所が。

  努力とはきっと不健康である。病身を押して行うことは、努力である。努力とは危機的(critical)である。困難な状況で最善の選択を行うことは、努力である。努力とは頑強である。その意味で努力は信仰である。努力とは時間場所を選ばない。何時でも何処でも、たった一人でも、何事かを為そうとせん強い意志を持つ事は既に努力家の証である。努力とは進歩主義的である。明治時代は努力の時代でもあったと言える。

 今まで散々挙げ連ねて来た「努力」の本質とは、一体何か。それは恐らく、ニーチェの言う所の「力への意志(Will to Power)」である。少し長いが、手元の用語辞典から引用してみる。

 

 力への意志〔独〕der Wille zur Macht

 ニーチェ後期思想における中心概念の一つ。人間のみならず、生あるものはすべて自己をより強く、より大きくしようとする意志をもつ。自分の力を拡張し、たえず新しい自己を生長・生成していこうとするこの意志にこそ生の本質があり、あらゆる生の形態はこの意志へと還元される。・・・・・・ニーチェによれば、世界にはただ支配欲との相関において生みだされる無数の「解釈」があるのみで、事実などは存在しない。世界の秩序は、なにを真理とみなすかという「認識」によって、すなわち「力への意志」によってつくりだされる。自己保存・生長の有用性に応じた価値評価(「遠近法主義」)が「真理」の本質をなしているのであって、「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような種類の誤謬である」。キリスト教的・道徳的価値観は「奴隷道徳」の反抗であり、ルサンチマン(怨恨)にとらわれた弱者が強者を引きずりおろすために考えだした価値基準であり、「真理への意志」もまた「力への意志」の一形態にすぎない。そうだとすれば、あらゆる解釈はおのれの力を増大させるために捏造された「遠近法的仮象」であり、すべては幻影にすぎない。しかし幻影にすぎない解釈も力への意志の発現であるならば、われわれはそれを否定するべきではない。世界にさまざまな解釈の可能性が秘められていることは、力の増大の徴候なのである。もちろん神や最高の価値、真理といった硬直化、永遠化した「存在」はなにひとつ許容されてはならないが、この仮象をつくりだす「力」そのものは肯定されなければならない。科学や宗教、道徳などの活動はすべての力への意志の発現形態であり、この力が最大限に発揮されるのが芸術のうちであるという。ニーチェは「力への意志」を根本原理に据えた、新しい生の哲学を提唱する。(鈴木保早, p. 284, 『哲学キーワード事典』木田元編, 2004年, 新書館)(下線部は筆者による)

 

 引用してみて驚いた。私がぼんやりと考えていたことが、もっと大胆に、力強く、明快な言葉で定義してあったからだ。この「力への意志」とは、私が長年想い焦がれていた「努力」と丸っきり同じだ!しかしながらこうした一致は、別段驚くに当たらない。実際、多くの人間がニーチェと思いを一致にするから、彼の死(1900年8月25日)以降も読み継がれているのだから。このように言い換えることもできる。私の悩んで来たのは、無益ではなかった。それを精緻な文章で書き記す能力が不足していた。また、こうも言えるだろう。もっともっと悩み、考え、苦しむ必要があった。事実、この作品はニーチェの亡くなった後に遺稿として出版されたようである。ニーチェは発狂して亡くなった。しかし、発狂する直前までは、その明晰な頭脳を以て思索をしていたに違いない。私は、煩悩な頭脳を以て思索するのだから、発狂には至らず、適応障害くらいで済んだのだ。これは全く喜劇である。天才が早世なのは彼が神様に魅入られたから、というのも全く肯ける話である。兎に角、私の「努力論」も、ニーチェ先生の諸作品に当る時期に達したということなのだろう。