Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

歯止めの掛け方

 修論やろうやろうと思っても、全然手に付かない。手に付かないっていうのは、生理的なもので、だからこそ厄介なんだけど、要はやろうとすると気持ち悪くなる。ありとあらゆる不快感が体と心に襲い掛かる。恥じらい、屈辱、怒り、鬱屈、恐怖、既視感、吐気、眩暈、立ち眩み、耳鳴り、腹痛、顔面蒼白、下腹部の膨張、動悸、息切れ、頭痛、痺れ、呆然、悲哀、切迫感、焦燥、罪悪感、後悔、自責、嫌悪、醜悪、厭世、虚無、失望、死、絶望、無などである。最終的には宗教や思想の問題にまで波及して行く。ただ修論をするかどうかが、生き方の問題にまで繋がるのだから、私はきっとどうかしている。

 尤も、論文の出来不出来など人の生き方と何ら関係はない。しかし、論文を提出することが卒業要件になっている大学院生にとっては、論文の出来不出来は、その後の研究者としてのマイルストーンの様なものだ。事実、最初の学術的実績の一つとカウントされるのだろう。

 しかしながら、私は博士課程に進学する予定もなければ、今すぐに研究職に就く予定もないのである。それどころか、もうこんなに困難な道を選びたくもないのだ。普通に就職させてほしい。片手間で研究させて欲しい。心を削って、体を壊して、魂を売ってまで研究をやりたくない。研究よりもまず健康が第一だ。

 もっと楽な考え方で生きればいいのに。私は色んな人からこのように頻繁にアドバイスされるが、もっと彼らの助言に耳を貸すべきだろう。彼らのほうが私のことをよく知っている可能性は否定できないからだ。私は幸いなことに良い人間関係に恵まれている。よく私のことを理解してくれる人が大勢いる。彼らの助言は傾聴に値する私に関する批評である。それはどんな本にも書かれていない。

 彼ら彼女らの言う所では、私は真面目らしい。私はメンタルが弱いらしい。私は優しいらしい。私は几帳面らしい。私は、なんだかんだ、いい奴らしい。私は世間知らずらしい。私はしっかり者らしい。私は約束を守らないらしい。私は忘れっぽいらしい。私は金銭感覚がオカシイらしい。私はよく遅刻をするらしい。私は頼り甲斐がないらしい。私は話しかけやすいらしい。私はムードメーカーらしい。私はいい友達止まりらしい。最後はやっぱり真面目らしい。

 以上の「私」に関する批評を思い出せるまま書いてみたが、面白いことに気付いた。真逆の評価が混在していることだ。或る人は「頼り甲斐がない」と言い、また或る人は「しっかり者」と言う。「几帳面」で「忘れっぽい」など、矛盾も甚だしい。私の内部にも、自分では気が付かない相反した性格が混在しているのだろうと思われる。

 多くの人が共通して言ってくれるのは、私の生真面目さである。真面目であるとは、私にとって宝である。失敗しようが成功しようが、私は真面目でありたいと思う。しかしながら、真面目すぎて深刻になったり、病気になるまで考え込むのはよくない。これは真面目の負の側面だ。歯止めが効かなくなる。この歯止めを自分で工夫して作ること。これが、修論をやる上で、また、恐らく修論以外の場面でも、大切なことだろう。

 歯止めとはなんだろう。過剰になるのを抑える働きをするもの。オーバーヒートしているのを察知するセンサー機能と、熱を冷ますための冷却装置が付いたファンの様なもの。キッチンタイマーはまさにそんな道具だ。時間を設定して、それが鳴ったら休憩する。思考の泥沼に入りそうなときに助けてくれるのは何だろう。本来、関係の無い話を始めたら、その徴候だろうと思われる。当初の目的から外れた、余談や脱線やコーヒー・ブレイク的な話が始まったら、一度中断するのがいい。私の思考はすぐに脱線したがる。まずは、目的地に到着する事だけを考えるべきだ。脇道に逸れるな。道草を食うな。真っ直ぐ最短距離で目的地を目指せ。脱線した後に本線に戻るような曲芸は、不器用な私には出来ないと知れ。

 段々どうしたらよいのか分かってきたぞ。キッチンタイマーを使い時間と仕事を管理し、思考の脱線をしないよう途中でリセットする。恐らく、今の私は、20分間程度しか集中力が持たないだろう。明日から、今話したことを実践してみようと思う。

 というか、なんで修論するかの目的をはっきりさせたほうが良いんじゃなかろうか。そりゃ就職に有利だからに決まってるんだが、それはあくまでも副次的、二次的なもの。第一義的には、文学的教養を身に着けたかった。しかし、それについては失敗した。というか、そもそも「最善の教養」など定義さえ存在し得ないことがないことが分かった。この一義的な目的が自然消滅した御蔭で、モチベーションが一気に実学的になったのは、案外良かったかもしれない。

 修士号の価値とは、残念ながら内容よりも外見にある。はっきり言えば、私の論文に学術的価値は殆ど無い。それは、最初から分かりきったことの話だが、認めるのは今でも辛い。こんなツマラナイ論文で修士号を貰うのが情けない。過去の先輩に申し訳ない。これは正直な感情だ。でも、出さないと先生に申し訳ないし、両親に申し訳ない。要は、雁字搦めなのだ。どっちに転んでも苦しいのだ。

 そうなのだ。主義主張が病であるのと同様に、教養も病であった!哲学が無意味な営為であるのと同様に、教養も無価値な装飾に過ぎないのだ。どちらも人間が生きる上で全く必要のないものだ。そんなもの無くても、人間は堂々と生きてきた。そのことは、祖父母を見てみれば分かる。人間の条件を考えれば、教養や哲学は、辛うじて必要条件の一つだ。また実際、教養も哲学も、はたまた思想も、学歴や読書や留学体験などを経なくても、己の中を、他者の振る舞いの中を、世界の動き方を詳細に観察すれば、真に学ぶ瞬間が幾らも転がっているのだ。知性は、アカデミズムの森を軽々と飛び越え、自由に羽ばたいている。

 私に残ったのは、信仰だけだった。祈りと努力だけだった。感想と発見と工夫の円環だった。それは即ち、死と再生の円環だった。仏教的な宇宙観がフィットするのが分かったし、キリスト教的な純真さを求めている自分に気付いた。現代思想や近代哲学よりももっと以前の近代以前、中世、古代の方に関心が移った。科学史や人類史や宗教史のアプローチを知りたいと思った。文献学は素晴らしいと思った。孤独を愛そうと思った。

 私は、明日の朝、たとえ目が覚めなくても、努力しようと思う。努力とは信仰だ。信仰とは苦行ではない。努力である。しかも、努力の本質は忘却と無意識と行為自体である。努力には、記憶も意識も意思も、究極的には関係がないのである。骨の髄まで努力する者にとって、努力とは、生と死を超越した現象自体である。この超越性こそ、努力の持つ宗教的な色彩である。

 話を戻そう。明日、修論をやろう。工夫をしつつ、努力しよう。悩んでもいいから、手・足・口・体を動かそう。修論が進むためならなんでもやってみよう。素直になって、人の言うことを聞いてみよう。意固地をやめよう。無理してでも、自分の意見を曲げよう。なんでもかんでも、今までの逆に考えてみよう。終わりよければすべてよしで、方法を多様化しよう。