Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

「毎日コツコツ」の功罪

 毎日コツコツ継続して努力することは、宗教的な基盤が薄いと謂われる日本に於いて、最も尊ばれる生活の様式である。例えば、毎朝ジョギングをするサラリーマンは、それだけで精神のレベルが高いと見做される。または、毎日お弁当を作るOLも「女子力」が高いと見做される。(「女子である」とは、今や、全国の非女子(未だ女子に非ぬ子)が到達すべき資質と能力である)毎日放課後に学習塾や習い事を率先してやる子どもは健気な頑張る子である。九十歳を超える老夫婦の元気の理由は毎日サプリメントを欠かさずに飲んでいるからである。老若男女問わず、凡人は今日から努力しようと己を奮い立たせ、やる気を漲らせる。しかし、その試みは大抵失敗する。三日と持たないのが大半で、一ヶ月続くのは全体の数パーセントに満たないだろう。しかし、性懲りもなく、キッカケを見つけては再チャレンジを図るのだ。後は死ぬまでその繰り返しである。

 私にとって、このブログとは日々の努力の賜物だろうか。否である。努力とは、こんなにも楽で、非生産的で、ストレス発散になる筈が無い。一方、修士論文の執筆は努力だろうか。これもまた否である。あれは努力の域を超えた一種の苦行である。精神修養の時間と考えてもよい。兎に角、相当な精神的負荷のかかる作業であるに違いない。耐えられなかったので何度も逃げ出したり、色々な先生や友人に頼ったり、親に泣きついたりして来た。あれはまさに恥辱の紙の束である。努力の結晶では断じてない。

 先程の具体例で述べたような、食事のちょっとした工夫や無理のない運動、補習や補講や自主訓練の類の活動こそ、努力の最も似合うシチュエーションである。鉄棒の逆上りがどうしても出来ない子(私)が、放課後、一人、鉄棒と戦う。何百回か挑戦してやっと初めてできた時の嬉しさは格別である。

 こんな話はどうだろうか。来月に控えたマラソン大会に備えて、早朝から起き出しては、いそいそとスポーツウェアに着替え、薄暗い町をポツポツと走る。段々と朝焼けが見えてきて、空もぱあっと開いてくる。清々しい気分になり嬉しくなる。この歓びが忘れられず、翌朝も、その次の朝も、当日まで早朝ランニングを怠らなかった。マラソン大会当日、思い描いていた時間配分ができず、悔しい結果に終わる。翌朝、なんだか走る気がしないが、習慣で目が覚めてしまう。何となくスポーツウェアに着換え、音楽を聞きながら近所を歩いてみる。季節が移り変わって行くことに気が付く。歩いてみると意外と長い距離を毎日走っていたことに気が付く。町の様子のふとした変化に気が付く。これでいいんだ。そう思って、また彼女は走り出す。

 あまりにも電通的な、博報堂的な安っぽい「感動」シナリオで、自分でも文才の無さに笑ってしまうが、私の考える「毎日コツコツ」のイメージとは大体の所掴んでいただけたと思う。

 さて、努力する姿は手放しで賛美されやすいが、その実態は孤独との闘いである。人間とは本来、集団的な動物であるが所以に、孤軍奮闘する姿は他人の目には神々しく映るのであろう。当人の気持ちは、ひょっとすると努力している自覚など毛頭ないかも知れないのだが、観客もそれをわざわざ確かめることもないから、何事もなく両者は演者と観客の関係を保っている。

 努力する姿を見せることは、最大の自己アピールであると同時に、最大の弱みを見せることでもある。努力とは、熟練者の証であると同時に、その道の最高規範に照らせば未熟でもあるのだ。「これからも精進します」「一生懸命頑張ります」という言葉の裏には、自負と謙遜の両方が含まれている。努力とは、「イケメン」や「高収入」の様なモテ要素的な響きすら感じられる時がある。努力とは、時に狡いのである。

 毎日コツコツ努力する生き方は、時に道を誤らせる。動かない方が良い時も、ズンズンと進んでしまって後戻りできなくなる。思索を止め、手足の動きを止め、目を瞑って深呼吸する方が、カリカリ本の頁を捲り続けるより体にも頭にも良いのである。過剰になるのを防ぐことこそ、心身のバランスを保つ上で最も大切なことだろう。考え過ぎ、悩み過ぎ、読み過ぎ、書き過ぎ、食べ過ぎ、寝過ぎ、家に籠もり過ぎ。今の私はまさにこのような過剰習慣に晒されてしまっている。努力とは、増大、拡大、拡張が一般的だが、減少、縮小、浄化のイメージも成り立つ筈である。筋トレよりもヨガ、入れるよりも出す、買うよりも共有する、売るよりも贈り物にするようなイメージだ。私には後者のイメージが必要な気がする。