Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

文章の良し悪し、その他について

 文章の良し悪しについて一言を付したい。誰に頼まれたわけでもないのにも関わらずそうしたいと思うのは、私が音読をよくするからである。音読をしていると、その文章のもつリズムが掴める。リズムが掴めると、その勢いで文意も把握できることが多い。文意が分れば、読むことが面白くなる。次も読もうという気分になる。快楽主義的な読書だろうと思われる。そう、これは文章の良し悪しというよりも寧ろ、文章の心地よさについての一言である。

 音読に適する文章とは、どこまでも教科書的な文章だ。小説は目で読む方がイメージが湧くし、書き手の筆の動きが掴みやすい。音読するなら詩や戯曲の方が良いだろうし、朗読会や朗読劇があるくらいだ。私は専ら自分の為に朗読するので、音読と呼んだ方が実態が近い。読経するように音読するのであるが、悟りを求めているのではなく、快楽を求めているのだ。だからこれは一人カラオケに近い。実際、音読するときは、YouTubeでビートのみの楽曲を流しながら音読する。ビートに乗る必要もなく、そうした方が雰囲気が出るのだ。閉め切った部屋で、音と声が重なり合い、私と本が重なりあい、一体となり、一つになる。本とセックスしている、というと気味が悪いが、まあ、実態はそんな所だ。

 文章は、話し言葉よりも文語体の方がいい。日本語よりも英語の方が良い。しかも古典的な文章が良い。というのも、単にそうした趣のある文章の方が、音にしたときに恥じらいが少ないからだ。決して美声ではない私の声では、例えば、軽めのエッセイや新聞の記事ではいけない。アナウンサーならいざ知らず、自分の声に幻滅するからである。文章自体に既に意味が十二分に施されていて、読み手(詠み手)が自然と声に発したくなるような、モーションを掛けてくるような(失礼!)文章でなくてはならない。今手元にある、中央公論社の『日本の文学』(近所の古書店で100円で買った!)には柳田国男斎藤茂吉折口信夫といった面々が並んでいる。「民族の異才三巨星」と裏表紙の紹介文にあるが、まさにその通りで、私の音読本の一冊になっている。英語の音読本は、以前も紹介したが、原仙作著の『英文標準問題精講』(旺文社, 1933)である。明治の気風を感じる、古き良き「受験英語」を楽しむことの出来るだけでなく、紹介されている例文の、その格調の高いこと。バートランド・ラッセルから、サマーセット・モームオルダス・ハクスリー、ロバート・リンドなど錚々たるメンバーである。文句のつけようなどある筈もない。

 お分かりだろうが、私はこのようにして狡賢く立ち回っている。古典の笠を着て、己の無知無毛を隠し通そうとしている。その罪滅ぼしに、このような告白文をブログに毎日投稿しているのだ。

 やる気を出すには、音読が一番。次にスクワット。次に30mダッシュ。体を使い、肺を使い、口を使い、足腰を使う。体全体を温めることが、勉強のモチベーションの源である。

 私は、どうやら、あまりにも凡人らしい。最近は凡人以下な日が多い。(凡人以下を指す言葉ってなんだろう)しかし、この凡人らしさは決して棄ててはいけない。凡人であることに磨きを掛けねばならない。不貞腐れたり、自暴自棄になっては行けない。哲学病や神経症に負けてはいけない。人真似では、駄目だ。