Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

何度目かの決意表明

 目に見える形にしないと、私はもう、生きた心地がしないのである。日常生活の全般に於いて、積み重なりが視覚化され、図式化され、目的化されなければ、価値を見出すことが大変難しくなっている。目的と価値の関係は、必ずしも資本主義的になる必要はないのだが、強いて言えば一種の遊び、競争、ゲームとして捉えることが、両者の関係を強固にするのに役立つのである。一言でいえば、私に生活には遊び足りないのであり、忘却と嫌悪と忌避と退却と退行と惨敗に満ち満ちているのである。

 私の異常な自己への関心は、以下のようなノート作りにも見られると思われる。私は何時も六冊のノートを持ち歩く。その題名は、『発見』『反省』『感想』『制作』『エポケー』『死と再生』である。それぞれに目的を持たせてある。『発見』は、主に日常生活の内部で気づいて工夫したことを書き留める。『反省』は、主に失敗記録である。『感想』は、書物や音楽や映画などの鑑賞記録である。『制作』は、最近専ら開いていないが、修士論文の研究ノートである。『エポケー』は、上記のノートに書き切れないようなモヤモヤした感情を書き留めるもので、判断中止したいものの一覧である。『死と再生』については、このブログがその代用になりつつあるが、「シニタイ」とか「イキタイ」とか思ったときに開くノートである。

 私は、内省すらも、仕事にしたいのだ。後悔と自責の念すらも仕事なのだ。より正しく、建設的な方法で後悔し、より緻密に正確に自責の念を捉えたいのだ。思考の完全主義者なのだ。だから、神経症が治らないどころか、深刻化している。ノートで思考を明瞭化したり、このブログに思いを書き連ねても、空しさは消えないどころか増す一方である。

 修士論文の期限が近付いている。怖いのだ。失望させることを、絶望することを、裏切ることを、恐れている。嗚呼、しかし、一切は苦しみである。一切は空である。それでも、私は修士論文から逃げたくないのだ。逃げたくない。しかし、やりたくない。自分に向き合い、自分の言葉で自分を表現したい。嗚呼、どうすればいいのだろうか。

 今日はもう修士論文は出来ないだろう。明日に持ち越しである。今日を含めず、残り三六日間である。三六日間は私に残されている。それは、至福である。苦しみかもしれないが、しかし、それは至福と思ってもいいのだ。だって、一切は空なんだから。解釈は多様だ。好き勝手にすればいい。世界は変わらない。解釈が変わって、移り過ぎて行くだけだ。意味付けに過ぎないものに、怯える必要は無い。もっと堂々と生きていい。修士論文を出すことは、善でも悪でもない。ただ、両親との約束、先生との約束、友人たちへの期待と心配。そういう人間関係についてだけだ。

 そうか、俺にとってこの修士論文は、人間関係論に過ぎない。成長する機会。そう思い直そう。目に見える形で、人間関係を修復する最高の機会だ。意味付けは私自身で行うものだ。たとえ、親や先生や友人が思って居なかったとしても、私の一方的な思い込みに過ぎないとしても(きっとそうだろう)、これを遣れば、彼ら彼女らと一緒に楽しく過ごせる。そして、私は孤立無援で生きて行けないことが分ったのだから、或る程度のギブアンドテイクの関係を取り結ぶ必要があるのだから、この修士論文は、彼ら彼女らの心配を掛けた恩返しとして、するのだ。

 下らないと思う。情けないと思う。間違っていると思う。だが、今の私にはこれしか見つけられなかった。成長していないと思う。賢くもなっていない。馬鹿のままだ。馬鹿だった自分を発見したのは、新しい馬鹿な私だった。馬鹿は賢くなるのではない。新しい馬鹿になるだけだ。俺はきっと賢くならない。知識を一杯、経験を一杯、体と心に詰め込んでも、やっぱり俺は相変わらずの馬鹿だ。それは、受け入れがたいが、受け入れざるを得ない事実だ。

 私は馬鹿だ。それでいい。修士論文を出す。その後もきっと馬鹿のままだ。家族や友達や先生を裏切れない。人間関係に雁字搦めになる。馬鹿だ。孤独に怯える。馬鹿だ。弱い、狡い、醜い、馬鹿である。どうあがいても自分は自分以外の人間になる事が出来ないという意味で馬鹿である。賢い選択や、強い体や、堂々とした立ち振る舞いや、美しい言葉や声を仮に持ったとしても、馬鹿である。それは忘れてはいけない。忘れない。忘れないように記憶するための装置としての、ノートや日記やブログだ。

 己が悪であったことを忘れないように。いつか善になったとしても。