Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

伽藍洞のような心を持ちたいと願った

 私は、私のことが、恐らく好き過ぎる。過剰な関心を抱いている。自己嫌悪とは、自己愛の裏返しであり、両者は同値の関係である。つまり、己を嫌うとき、己を嫌っている高次の己を愛しているのであり、己を愛すとき、己の内部に潜む低次の己やを嫌っているのだ。ここに、自分自身の構造を見る。「私」とは、観察する対象としての自己と、観察者としての自己の二つに分裂する。否、これは分裂ではなく、同時に発生するのだ。自己世界を作り上げようとすれば、自然、その作り手としての私が産まれる。喩えて言えば、神と世界の関係である。

 

 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。

 「光あれ。」 (『創世記』日本聖書協会発行)

 

 このような壮大な物語を欲したくなる背景には、やはり、私は自分自身を過剰な意味付け、価値付けを施そうとしているに違いない。自分が一角の人間であると信じたいのだろう。そして、その根本感情には、絶対的な自信の欠如があるのだろうと推測される。自己信頼が無いのだ。まるで空洞なのだ。伽藍洞のような、すっからかんの自己評価だから、虚構が欲しくなる。壮大であればあるほど、この空虚感は実感されるだろう。

 

 僕の心を貴方は奪い去った 

 俺は空洞 でかい空洞

 すべて残らずあなたは奪い去った

 俺は空洞 面白い

 馬鹿な子どもがふざけて駆け抜ける

 俺は空洞 でかい空洞 

 いいよ 潜り抜けてみな 穴の中

 どうぞ空洞 

 (『空洞です』より 作詞:坂本慎太郎 演奏:ゆらゆら帝国

 

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 空洞のままで、つまり伽藍洞の心、空虚なモード、忘却したままの気持ちでよしとするのは、大人に為った証なのだろうか。それとも、依然と変わらず子供のままの証なのだろうか。

 そもそも、大人も子供も、年齢の違いを別にすれば、左程代わり映えしない言葉に過ぎないのかもしれない。人間、人、男、女、どうやって表せばこの気持ちが鎮まるだろうか。例えば自分自身の名前。私に与えられた名前がある。ここには伏せて記すが、私の名前は、氏と名の頭文字をそれぞれアルファベット表記すれば、I.T.である。そうだ。私は、男でも、人間でも、子どもでも、大人でも、大学院生でも、フリーターでも、どんな社会的名付けから離れて、I.T.である。それだけあれば十分だろうか。

 空洞とは、あらゆる社会的名付けは勿論、自己証明書としての姓名を失うことである。神に名前は必要ないのは、神は自己を証明する必要が無いからだ。私に自己を証明する必要があるのは、私は、まず神ではないし(馬鹿な宣言だ)、次に、他者と区別されなければ生きて行けない。

 ところで、他者とは、私と家族以外のあらゆる人間のことだ。仮に「家族」という言葉を、血縁関係に限らず、友人、学校、地域まで拡大すれば、地縁と呼べるかもしれない。地縁から更に外れた人間は、他人である。しかし、地は何処までも続いて行く。地球を一つの家族的組織と見ようとする試みは歴史的に成功しているとは言い難いがしかし、私の尊敬する宇宙飛行士の毛利衛さんが、地球に帰還したときに言った言葉は何処までも清らかな言葉のように聞こえる。

 

 宇宙からは国境線は見えなかった。

 

 空洞な気持ちで生きることは、anonymous(無名、匿名)な生活を送りたいという気持ちと、どこか繋がる。薄汚れた心を浄化する働きが、空洞にはあるのだろう。そして、空洞という言葉は、中観仏教にも通じる価値観が内包されていると推測される。「万物流転」の考え方を説いたのは、ギリシャの哲学者のヘラクレイトス(紀元前540年頃~紀元前480年頃)であった。「誰も同じ川に二度と入ることは出来ない」と、彼は自身の思想を端的に表している。反対するのが阿保らしくなる位、当然であるし、そうであろうと思う。誰も、この一瞬を生き続けているので、昨日のことに思い煩ったり、明日のことを心配しても仕方のないことだ。しかし、それに気づいて、本当に実践するのは大変なことだ。当然なことは、その当然さゆえに忘れ去れやすいからだ。

 空気のような人間になりたい。伽藍洞のような心を持ちたい。この願いは、しかしながら既に半分は叶って居るのだ。というのも、私がそう願う、願わないに関わらず、私は空気のような人間であるし、伽藍洞のような居心地に安住している。私は、現在享受している生活が自然に獲得されているとは一瞬たりとも錯覚したくない。現在の私の生活は、私を含んだ家族によって成り立っているし、血縁や地縁があって成り立っている。お互い様である。(昔は嫌いだった言葉だ)それをもっと鮮明に、新しい言葉で置換して、表現したい。説教臭くない、手垢の付いていない言葉で、音で、声で、表現したい。その試みが、このブログである。または、ブログを離れた自分の立ち振る舞い、言葉遣い、仕事の態度である。修士論文である。願うだけではまだ足りない。その願いに、実践的な知性がなければ、社会(他者・家族・友人・先生・会社・地域・国家・組織・集団的機構・世間・世界・自然・宇宙ほか何でもいい、自分以外のありとあらゆる表象世界)の役に立っているという感覚がなければ、「空洞」は空語に帰してしまう。無価値、無意味になってしまう。私は無意味な時間を、無価値な人生を生きて行く自信がない。空洞にすら、意味と価値を認めないと、生きて行けない。

 空洞を空洞たらしめるのは、私を空洞であると認識してくれる、また別の空洞なのだ。だから、この投稿は、私の希望である。

 空洞とは希望である。