Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

読書の愉楽(最終版)

 長々と読書論を語ってきたが、一応の目処として、本稿で終わりとしたい。私の読書論とは、喩えるなら紅葉狩りの如くである。または、日曜の午後に喫茶店で珈琲を飲むが如くである。趣味的、享楽的読書論であり、それ以上の域を出ない。研究書の正しい読み方を未だ知らない。論文の正しい読み方も書き方も未だ知らない。もし、速読や効率のことを求めるのなら、他を当たって欲しい。幾らでも参考書が転がっている。私は大学受験の時に、そういう「モノ」的読書に嵌って、受験が終わった後にも長々その癖が抜けきらなくて困った。スピード重視、効率重視、アウトプット重視の読み方って、どこか男らしい。勇ましい。気合の入った読み方だ。私のような女々しい男には相応しくないのだ。

 で、私の読書論は、まず暇に満ちている。斜めに読んでも、逆から読んでも、一行だけをじっくり考えてもいい。目的用途に応じて色分けして線を引いてもいい。声に出してもいいし、黙読でもいい。本にも依るが、頁を切り刻んだっていいのだ。読みやすいようにコピー&ペーストして再編集してもいい。赤ペン先生になって、漢字やてにをはの間違いを探しても面白い。要するに、遊びとしての読書の勧めだ。なにより飽きない。楽しい。気づいたら三時間たっている。効率も、役立つ・役立たたないも関係ない。否、すべて効率に則っているのである。すべて役立つのである。ただ、その効き目は後で来る。目に見える形ではないかもしれない。時間感覚を多少麻痺させないと、ついてくるのはキツイかもしれない。せっかちさんには向かない。「今北産業」に慣れっこなネット住民には一生分からないかも。

 それでも、読書論と銘打ったのだから、或る程度の規則は設けようと思う。三大原則が覚えやすいので、三つに無理やり分けてみよう。まず、読む対象、読む空間、そして読む方法である。

 何を読むべきかについて、私は長年考えて来た。長年と言っても、五、六年である。私には五、六年も継続して考え続けるのは、相当考えている部類に入る。古今東西の古典を読み通した読書家の勧めるリストを集めたこともあったが、あまり功はそうしなかった。結局、教養というやつも個人の嗜好から離れることができないのだ。フランス文学よりアメリカ文学を好むのも、単に私の嗜癖である。現代日本文学よりも近代日本文学を好むのも、同様である。どうしようもない好き嫌いによる選別は、野菜だけでなく、読むジャンルや書き手にも当てはまる。活字なら何でも好きなタイプ(活字中毒)も中には居るが、やはり例外的な存在であるだろう。だから、私が言えることは、まず自分の好きな作家を一人見つけなさい、くらいしか言えない。あと、拘るとすれば、好きな作家の言葉を味わい尽くすための色々な工夫くらいだろうか。書写もいい。音読もいい。しかし、一番良いのは、全作品を集めある時期に集中的に読み通すことである。梶井基次郎なんか最高だ。ちくま文庫で全一巻で売られている。千円弱で、梶井基次郎という人間の吐いた言葉、書き散らしたもの、集中して書いた物、嘆き、感動などを味わえるのだ。一ヶ月くらいで一気に読み通す。読んだ後、またこれは後に述べるが、その作家の人生を振り返ってみる。どんなお師匠さんをもったか、どんな経験を、どんな交友関係を、どんな悲哀を味わっているかを知るのだ。そうすれば、自ずと、次に読むべき本に出会える。

 次に読む空間について。誰にとっても快適で便利で清潔な空間について考えるのなら、やはり、自分の住む地域の(できれば大きめの)図書館が参考になるのだろう。大きい図書館のいい所は、まず閲覧についてのルールがしっかり記述されている所だ。座席を確保するのにもカウンターで予約したりする所もある。館内飲食についても、蓋のある水筒やペットボトルはOKという例外を除き、基本は禁止である。私語の禁止はないが、携帯電話は共用スペースのみ可能になっている。持ち込みのPCも、音への配慮を考え、キーボードの使用以外はOKとしている所もある。さて、こういう事細かい規則や例外事項を鑑みるに、空間とは他者への配慮を軸にして考えられた人工物であると分かる。また、飲食を禁じるのは、本に対する敬意である。大きな音を禁じるのは、読書という行為に対する敬意である。このような配慮と敬意は、たとえ一人部屋に籠って読むときも大切な心得である。

 さて、当然、こうしたギチギチなパブリック空間が苦手で、息もできない、苦しいと訴える人もいるだろう。そうした人(私)は、自然の中にスペースを見つけるのがいい。図書館並みの快適さや便利さや清潔さはなかなか求められないが、例えば、近所の公園のベンチや、川沿いのベンチ、木の陰になっているような場所を見つけて、折り畳み式の椅子を持っていくのもお勧めだ。川岸に独り座して本を読むのは、私にとって至福の時間だ。ここら辺は、工夫次第でいくらでも改善点を発見できるだろうと思う。

 最後に読書方法について。精読・素読・黙読・音読と読み方を分けてみる。まず精読について。五色の色鉛筆を買って、それぞれに機能を持たせる。例えば私の場合、赤青緑橙紫に、それぞれ、「情熱・主張」「冷静・分析」「具体例・歴史」「疑問・反論」「不思議・興味深い」という役目を持たせて、本に書き込んでいる。書き込む位しっかり読み込みたい、自腹を切って買った本に限る。次に素読について。これは人から借りた本、図書館から借りた本、ブックオフで百円で買った本について当てはまる読み方。所謂流し読み、斜め読みである。先ほどの五種類の目的のいずれか一つだけを念頭に置いて読む。例えばこんな感じ・・・「なにか書き手の情熱を感じられたらいいな」「分析方法はどんなツールを使っているんだろう」「『たとえば~』の所だけ読もう」「ツッコミまくって付箋を貼りながら読む」「へぇー、すごいなあ、知らなかった!」次に黙読について。人は大切な話を聞くとき黙る。そしてじっくり相手の眼を見る。黙読とはじっと書き手の眼を見る読み方だ。適する本は、心に刻むべき金言が蓄えられている種類に限られる。例えば、聖典や経典を読むときの姿勢だ。書き込みは基本やらないが、付箋はよく使う。最後に音読について。音読すべきものは、まず朗読用のCDが売られている様な作品である。むしろ、朗読CDの声の良し悪しで決まると言ってもいいかもしれない。真似したくなるような声の持ち主が朗読した朗読本を探すのがいい。私の場合、たまたま卒論で研究していたJames Baldwinというアメリカ黒人作家の作品群を読解する時、一緒に朗読CDも探して買っていたので、それを利用している。Adam Lazarre-Whiteという方の発するメロウな声ナレーションに真似して音読している。心なしか、私の声もメロウになってきた(嘘)。

 付言すれば、読んだ後に、感想文を書くのは頭をまとめる上でとても役立つのでオススメする。また、その感想は自分のノートに書かずにパブリックなスペース、例えばAmazonのreview欄でもいいし、読書メーターや、洋書ならgoodreadsなどの投稿サイトに感想を載せて置けば、イイネや返信が来たりして楽しい。偶然性を遊ぶのも、読書の楽しみの一つだ。

bookmeter.com

www.goodreads.com

 

 繰り返してまとめるのは避けるが、読書一般について、最後に自戒を込めて言うとすれば、何時何処でどのように読んでも構わないが、読む気があるなら読むべき本から読むべきだ。下らない本は下らない。99.9%の本は下らない。しかし、「表紙で本の価値を判断してはならぬ」という諺の通り、文章の良し悪しは肩書や売れ筋だけで判断できない。だからこそ面白いのではあるのだけれど。勤勉な読書家は、鑑定士のような眼を持っている。一目見て、これはいい、これはそうでもない、これは偽物と判断できる。究極的な読書論は、この鑑定眼をいかにして磨き上げるかに尽きる。そして、それは人生論とも重なる壮大な話だ。

 これまで書いてきたことの多くは、私の経験によるというよりも寧ろ、多くの素晴らしい読書家による示唆による。例えば、斉藤孝氏の『読書力』(岩波新書)や立花隆氏の『ぼくの血となり肉となった五〇〇冊 そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』(文藝春秋)は、私が大学一年生の頃に触れた初めての「読書論」で、それ以来、読書の愉楽に開眼させていただいた。英文学者の外山滋比古氏の『思考の整理学』(ちくま文庫)や、同氏の翻訳である『本を読む本』(M.J.アドラー・C.V.ドーレン著.講談社学術文庫)も大変役立った。今まで読んで来た読書論についての著作を挙げだせばキリがないが、思いつく限り列挙してみたい。ショウペンハウエル『読書について他二篇』(岩波文庫)、田中菊雄『英語研究者のために』(講談社学術文庫)、渡辺昇一『知的生活の方法』(講談社現代新書)、澤田昭夫『論文の書き方』、梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)、清水幾多郎『論文の書き方』(岩波新書)、呉智英『読書の新技術』(朝日文庫)、宮崎哲弥『新書365冊』(朝日新書

 

 最後の最後。本稿を書いていて思い出した本があった。苅谷剛彦氏の『知的複眼思考法―誰でも持っている創造力のスイッチ』(講談社+α文庫)である。文句なく面白く、為になる本だったので、是非お勧めである。

 

 

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)