Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

書くための姿勢

 書き散らす、書き溜める、推敲する、脱稿する。書くことは、気晴らしのための側面と、読んでもらう人を思って気苦労を重ねる側面の二つがある様に思う。気晴らしのために書き散らすことは、まずそれだけで楽しいし、病みつきになる。書く手(タイプする指)を止めることが出来なくなるほど、どんどん思いついた言葉を重ねて行く。ここには或る種の快感、万能感がある。毎日書かないと気が済まなくなる。一日中パソコンに張り付いて、自分の思いをスクリーンに文字化する。これは自己対話なのだ。しかも言葉という道具を使った、彫刻作業なのだ。自分の心を言葉という鑿を使って彫り上げる。より精密に、より繊細に、より正確に表現する。この愉楽は何物にも代えがたい。

 一方、誰かに読んでもらうために何かを書くというのは、なかなか日常生活では経験できない。昨今、手書きで手紙をしたためる機会も年に一回の年賀状くらいのものである。仕事上のメールは辛うじて文章の作法を残しているものの、友人同士のメールやLINEアプリの場面は、会話感覚と地続きである為、同列に扱えない。ビジネスシーンでは、大体において書き方の型が既に出来上がっており、焦点は専ら内容に絞られる。私にとっては、書き方の独創性は、内容のそれと同程度(またはそれ以上)に大切なものなのだが、あまり多くの人の共感を呼ばないようである。いかに分かりやすく、視覚聴覚に訴え、購買意欲を沸かせるかなどの、心理的効果を狙った文章は、あまりにも分かりやすすぎる。(脳機能的には、どれだけ見え透いた文章でも効果はあるんだろうけど。)

 よい文章を書こうと思って書店に行くと、『文章作法』と銘打った本が沢山並んでいるのを見てげんなりしてしまう。文章作法について書いた作家、評論家、文学者は数限りない。彼らにとっては文章作法とは文体論と通じる。文体とは、書き手の作家性と同値であると見做されており、文学研究の主要テーマである。万人とって素晴らしい文章の書き方などある筈もないのだから、『美しい日本語の書き方』などと銘打っている本は皆、或る程度傲慢の産物であると言わざるを得ない。作家や評論家や文学者は基本的に傲慢であるから(苦笑)、仕方ない所もあるのだが、それはまた別の話だ。

 誰かのためを思って書く文章は、全て美しいかと言ったら、そうでもない。全然気持ちが伝わって来ない時もある。しかし、何年か経って読み返してみると、すんなり腑に落ちることもある。文章の良し悪しとは、直ぐに判断できない。一読して直ぐに理解できる文章は、直ぐに忘れてしまうような軽い文章でもある。心に残るエッセイを書く人は、本当に文章が上手な人だ。私はあまり詳しくないが、歌人俳人こそ日本語の名手であるのだろう。五七五の定型句の中に状景描写と心情描写を同時に書き記すとは、尋常ではない言葉の綾である。また、長さや構造の複雑さも、時に美しい形を持つ。下手に入り組んだりすると訳が分からなくなるが、文章の規則(文法や語法や表記法)と書き手の信条(確固たる信念)が一定であるならば、どんなに複雑怪奇に見える文章も、理解可能な瞬間がある。ホーソンだろうが、メルヴィルだろうが、分かる文章は分かるのだ。それを可能にするのは、読み手の理解力というよりも、文章の美しい構造のお陰である。

 真実を描くためには、真実を把握するための眼が必要だ。その眼で見た世界を表すための単語が必要だ。語彙だけでは足りない。それを正しく表記するための文法規則が必要だ。また、語彙の意味を明瞭にするためには、語彙自体の規則(語法)も必要だ。相手に思いを伝えようとする思いは、一体何処からやってくるのか知らないが、この熱意を維持するためには、自分と同程度ないし少し上の書き手と友達になるのがいい。どんな偉大な作家も、共通するのは、同時代に活躍した作家たちと交流があったことである。切磋琢磨するのは、生きた人間とは限らない。古典作品から、書き手の息遣いを知るのは、生きた人間から技術を盗むよりも、ずっと難しく、それだけ遣り甲斐のあることだ。好きな書き手の全集を買って来て読み通すだけでなく、すべて書き写すのも、大変素晴らしいことのように思える。書くための素養、即ち、滅私の実践に最も近い練習方法だ。この時は、タイプではなく、できれば鉛筆で原稿用紙に書写した方が良いだろう。

 書くことは、私のためであり、誰かのためである。しかしながら、やはり、最も大切にしなければならない書くための姿勢とは、私のためでも、誰かのためでもない、滅私に至るために書くという態度だろう。即ち、真理・真実のために書く、ということだ。