Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

嫌いなもの

 嫌いなものを語るのは好くないことだと教わったのは、遠い昔の話だ。誰かから聞いたのだろう。母親の「好き嫌いしてはダメ」という言葉からの連想だろうか。食べ物でなくても、好き嫌いは自然に備わっている。「備わっている」としたのは、その判断が恣意的だからだ。好きな色、好きな動物、好きな街、好きな国、好きな文化、好きな銘柄の商品、好きな空間、好きな時間、好きな人。「好き」の数だけ「嫌い」もあるのは当然の論理的帰結であって、四の五の言っても始まらない。嫌いな人、嫌いな言葉、嫌いな絵、嫌いな考え方、嫌いな空間、嫌いな時間。ところで、「嫌い」とは、「好き」よりも、実は面白い現象かも知れない。嫌いなものを並べてみると、自分の意外な部分が見えてくるかも知れない。

 嫌いな人。特定の人を嫌うということは、大変幸運なことだが、私の場合少ない。強いて言えば、自分自身である。しかし、この自己嫌悪は自己愛と密接に結び付いており、相補的に互いを支え合う関係にあるので、ここでは外したい。普段好いている人でも、しかしながら、ある瞬間に於いて嫌いな人に変身するときがままにある。言葉遣いに於いて明らかな稚拙さが発見され、訂正を促しても受け入られない時、生理的な嫌悪を感じる。思い付きを直ぐに口に出す人や、何の考えも無く人に答を求める人、調べもせずに判断を下す人などだ。「嫌い」というよりも「汚い」という感覚だ。または、「バカだなあ」「この阿呆が!」と心の中で罵ることもある。私はきっと言葉の形式を重んじるのだろう。

 嫌いな言葉。凡庸なものの言い方は好まない。効果を狙わない、紋切型の表現は嫌いだ。金太郎飴のような、ステレオタイプな、独創を目指さないような言葉遣いは、読みたくもないし、聞きたくもない。私の体の感覚器官を通したくない。(言い過ぎか)血の滴るような言葉、多少グロテスクでも切迫した痛みを伝える言葉なら聞いてみたいし、味わってみたい。言葉の描写力の限界を知りたいという病的な好奇心が世界の醜さに打ち勝つ時もある。明らかなことは、私の好きな言葉とは組み合わせの妙である。技のない言葉に興味は無い。

 嫌いな考え方。ヤクザっぽい考え方は嫌いだ。とっぽい兄さん達とは、一緒に上手くやって行けそうにない。さて、「とっぽい」とは、①生意気で粋がっている、②抜け目がなくて狡い、という意味だ。まさに私と正反対の性格を表す言葉だ。私を表す言葉は、「卑屈」である。私は、人を見るときに、自分の考え方と合致するかどうか、卑屈な部分も受け入れてくれるかどうかを、無意識に判断しているのだろう。そして、相対的にしか自分を受け入れられない弱さ、狡さを再発見するのだ。私は、自分と真逆の性格の持ち主を嫌うと同時に、自分の考え方の枠の中に安住する自分自身も嫌いなのだ。

 嫌いな時間とは、この三年間はほとんど毎日であるが、特にその陰鬱さが濃くなる瞬間は、目覚めた直後、寝落ちする直前である。「ああ、もう昼過ぎだ。今日も修論が出来なかった」「ああ、もう一日が終わる。今日も修論が出来なかった」毎日、こういう自己非難の言葉を投げかけている。その瞬間が一番辛く苦しい。深夜コンビニにインスタントラーメンと菓子類をこそこそと買いに行く時も、「シニタイ」と思う。自分自身に課した仕事や規則を守らずに、そこから離れる瞬間に、最も生理的嫌悪感が高まるのだ。主観と客観が乖離する時と言ってもいいかもしれない。醜い主観と清潔な客観が体を二分し、弱った魂が行き場を失う。口から、鼻孔から、耳の穴から、体の皮膚を覆い尽くす無数の穴から「私」という吐瀉物、濁った液体、臭気が滲み出そうになる感覚に囚われる。ただただ不快である。

 嫌いな空間については、余り無い。強いて言えば満員電車くらいか。多少混み合っていて煩いくらいの方が、かえって気分も高揚する。全く人気のない公園や、寒々しい川の土手などは、時折佇んでムードに浸ることはあるが、大抵気分を滅入らせるものだ。逃げ込める場所がないような空間はすこし苦手かもしれない。空間の中に中空構造なり、仕切りによって形作られる影や奥、闇の存在がないとドキドキしてしまう。どうやら生来の臆病者らしい。

 嫌いな仕事はなんだろうかと考えたとき、時給が低いとか高いとか、労働環境が劣悪うんぬんよりも、自分が誰の役に立っているかが不明な仕事が一番嫌いだ。無論、どんな仕事も誰かの役に立っていて、役に立たない仕事はないし、害悪しか生み出さない仕事は、仕事ではなく破壊である。インフラストラクチャーに関わる人たちは或る意味において、最も幸福な職業だと言える。彼ら彼女ら無しには、私たちの生活そのものが成立しないからだ。必ず役に立つ。道を作る、ダムを造る、発電所を造る、学校病院を作る、というのは、行為自体に善が内蔵されている。その一方、株式投資や政治運動や大学での基礎研究や評論活動などの、二次的、三次的に役立つと考えられる仕事は、私には向いていない。私は学問を仕事に出来ない。学問は趣味である。趣味の域を出てはいけないから、外に出るのではなく、内に掘り進むべきだと思う。

 「金を貰えるのなら何でもする」型の仕事擬きには、私は明確に軽蔑したい。例を挙げるなら、自分のプライベートを曝け出す、他人の悪癖悪習を告発する、中身の空っぽなガラクタを美辞麗句を並べ立てて押し売りする、耳学問を吹聴して購読料を掠め取るなどだ。「仕事とは飯の種だ」「俺にだって養う家族や仲間がいるんだ」「俺は結果を出しているんだ。現にこうして金を産んで、お前らに毎月給料を払って、ちゃんと組織を回しているんだ。」このような下賤に何を言っても無駄だろうが、ヒト・モノ・サービスの価値とは金の価値と同値ではない。金が幾らあっても、仕事を実行し、物を開発し、サービスを提供するのは、金ではない。金は交換手段に過ぎない。それ以上でも、それ以下でもない。しかし、ヒト・モノ・サービスは、金のように便利に交換できない。当たり前のことだ。しかし、残念なことに、本当に世の中には、金が魔法の杖のように、あらゆる事象を産み出すと信じ切っている人が少なからずいる。哀しいが仕方ないことかも知れない。いつか気付いてほしいが、私には反論するための経験知もないので、傍観するしかない。

 嫌いなものをまとめると以下のようになる。言葉遣いが下手な人。紋切型な言語表現。とっぽい人。抜け目のない人。現実逃避する瞬間。逃げ場のない空間。金儲けしか眼中にない人。役に立っている実感のない仕事。抽象すると、自他の弱さ、狡さ、醜さが顕現する時間、場所、方法、様態などである。やはり私は、自分の中に、他人の中に、そして自他の交わるインタラクションの中に、悪の存在を見ているんだと再確認できた。

 

 一つ大事なものを書き忘れていた。私の嫌いなものの頂点にあるもの、それは肩書きだ。人間を惑わし、錯覚させ、愚行に陥らせ、そして二度と元通りにならない不可逆的変化を及ぼすもの、それが肩書きだ。これは身分の高い低いではない。たとえ「フリーター」という肩書きでも、十分過ぎるほど、危険である。自己評価と肩書きを取り間違えると、大抵、取り返しのつかないことになる。肩書きを嫌うのは、自分が罪を犯すことを恐れるからだ。