Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

自分のことが分らない

 シニタイ。修論を終わらせたい。寝たい。バイトに行きたくない。もう一杯コーヒーが飲みたい。煙草を吸いたい。喫茶店に行きたい。本を読みたい。定職が欲しい。車を運転したい。海が見たい。走りたい。

 心の声を記述するのは面白い。正直な気持ちを言葉にするのは良い習慣だ。これが、私の本来の姿のように感じるからだ。まずはこの言葉を信じようと思う。この中には不確実なものも入っているだろう。しかし、所詮私の言葉に過ぎないのだから、底が知れている。大して善人でも悪人でもない。俗物であり、嘘吐きである。自分自身に誑かされないように、観察記録をつけておく。

 医者は自分の症状を的確に判断できるのだろうか。医者の不養生とも言うが、きっとどんな専門人、職人にも当てはまる言葉だ。文学者が口下手だったり、弁護士が詐欺にあったり、精神科医が鬱になったりするのは、全く自然なことだ。だから、大学院生(私)が自分の論文の価値に気が付かないのは当然なのだ。(偉ぶるな)

 やらねばならないとわかっているのにやらない。病気なのか。怠慢なのか。その両方なのだろう。病気であり、怠慢である。だから大変なのだ。病気なら薬で症状を抑えられるが、怠慢は性格である。性格はなかなか直らない。治療と矯正を同時に行うことが大変難しいと知った。まるで私は巨大な虫歯である。生まれつきガタガタなのに、歯磨きも怠っているので、もう手の施しようのないくらいボロボロなのだ。いっその事、総入れ歯にでもしたらと思われるくらいだ。

 一度にすべての汚れと罪を洗い流したいと何度も願ったが、その願いは受け入れられなかった。この汚い性格を受け入れる為には、相当の覚悟が必要なのだと知った。受け入れたくないならば、変えて行けばいいとも思ったが、根本的な変革は無理なのだろうと直観した。見た目はいくらでも治るだろう。もう元気になったね、と言われる。早く仕事に就きなさいと言われる。そうだなあと思う。しかし、本当のところは、私にも自分が果たして治っているのか、治療中なのか、矯正が必要なのか、全然分からないのだ。

 自分のことが分らない。他人のことは猶更だ。

 分からない。不快だ。この不快は消えない。目を逸らすこともできない。不快は快の前に在る。不快は快よりも長く続く。不快は死であり、生も不快である。それでも、やけっぱちにならず、自殺もせず、他者を諦めてはならない。ダブル・バインド(二重拘束)である。不快生活を快適に送ることは果てしなく難しい試みだろう。綱渡り状態だ。失敗とは死である。成功しても不幸な生だ。虚無主義に陥ることすら許されない生とは如何に過酷なものか。

 二者択一を迫られているのだ。しかし時間は止まらない。刻々と選択の時は差し迫っている。抜き差しならない状況で、己の下す決断をより最善に近づけようとする。肉を切らせて骨を断つ的思考に陥る。苦難を犠牲と見做したがる。無意味に意味を、無価値に価値を持たせようと必死になる。

 嗚呼、修論が終わらない。辛い。逃げたい。苦しい。この苦しみに意味があるとすれば、未来の私への置き土産だ。振り返った時、このブログを見直したとき、嗚呼、大変だったんだなあ、あの時はよく頑張ったよなあ、と美化するための布石である。

 はっきり言っておこう。お前は、頑張ってなんかない!断じて、頑張ってはいなかった!頑張るとは、努力とは、もっと脇目も振らずにやる様態のことだ。お前は脇道に逸れ、そのまま本道に帰って来なかっただけだ。判断中止しただけだ。懐疑を止めにして、宙ぶらりんになっているだけ。のろま。とんま。恥知らず。厚顔無恥。それがお前だ。お前の正体だ。いい加減、気づいたらどうだ。受け入れろ。お前は、馬鹿だ、と。

 あと33日間である。まだ俺は生きている。