Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

自己啓発本、その功と罪(前編)

 自己啓発本をよく読む。これは精神修養としての知的活動というよりも、一種の嗜好である。

 自己啓発本を開くと、まず著者欄に目が行く。大抵の本の著者欄には、著者近影、本名、通称、出生地(男、妙齢の女性の場合は出生年も加わる)、学歴、所属、代表的な仕事、著作が数冊、時に表彰や受賞歴が加わる程度だ。しかし、自己啓発本にはこの他に、幼少時の(大抵の場合、悲しい)エピソードから始まり、家族や友人関係、薫陶し師事した人物、転機、天命を感じて取り組んだ末の社会的成功を語り、地位と名誉を欲しいままにしてきたのかを恥ずかしげも無く語り尽くし、挙句には趣味、特技、現在進行中の(あまり面白そうではない)企画なども付け加わるために、冗長になる。そして、この著者欄は、往々にして、本文以上の内容を持たない。つまり、著者欄だけ眺めていれば、本文など読まなくても大体分かってしまう。そういう類の本が、「自己啓発本」というジャンルには、なぜだか知らないが頻繁に起こっているのである。

 自己啓発本界のカリスマ、苫米地英人氏のことを蔑んでいる訳では毛頭無い。先に述べたのは一般的な自己啓発本の著者欄である。苫米地英人氏の著者欄は、敢えて断言するが、あらゆるジャンルのあらゆる本のそでに添えられる著者欄の中でも、恐らくは、最長である。また、その余りの長さ故、本の終いの「扉」と呼ばれるところに、一ページ半に渡って書かれているのである。以下にAmazonでの著者略歴の最新版を引用する。

 

①1959年、東京生まれ。
認知科学者(機能脳科学、計算言語学認知心理学分析哲学)。計算機科学者(計算機科学、離散数理、人工知能)。
カーネギーメロン大学博士(Ph.D.)、同CyLab兼任フェロー、株式会社ドクター苫米地ワークス代表、コグニティブリサーチラボ株式会社CEO、角川春樹事務所顧問、中国南開大学客座教授、苫米地国際食糧支援機構代表理事、米国公益法人The Better World Foundation日本代表、米国教育機関TPIジャパン日本代表、天台宗ハワイ別院国際部長、公益社団法人自由報道協会 会長。通商産業省情報処理振興審議会専門委員なども歴任。
マサチューセッツ大学を経て上智大学国語学部英語学科卒業後、三菱地所へ入社。2年間の勤務を経て、フルブライト留学生としてイエール大学大学院に留学、人工知能の父と呼ばれるロジャー・シャンクに学ぶ。同認知科学研究所、同人工知能研究所を経て、コンピュータ科学の分野で世界最高峰と呼ばれるカーネギーメロン大学大学院哲学科計算言語学研究科に転入。全米で4人目、日本人としては初の計算言語学の博士号を取得。
⑤帰国後、徳島大学助教授、ジャストシステム基礎研究所所長、同ピッツバーグ研究所取締役、ジャストシステム基礎研究所・ハーバード大学医学部マサチューセッツ総合病院NMRセンター合同プロジェクト日本側代表研究者として、日本初の脳機能研究プロジェクトを立ち上げる。
⑥現在は自己啓発の世界的権威、故ルー・タイス氏の顧問メンバーとして、米国認知科学の研究成果を盛り込んだ能力開発プログラム「PX2」「TPIE」などを日本向けにアレンジ。日本における総責任者として普及に努めている。

Amazon.co.jp: 苫米地 英人:作品一覧、著者略歴より抜粋し、段落を付けるなど修正した)

 

 著者欄だけで六段落の大構成になるのは、本の世界広しと言えども苫米地英人くらいのもので、明白な事は、彼の天才性と傑出性である。英語ではoutstandingというそうだが、日本語では「出る杭」と云うそうだ。要するに日本人離れしていると言えば理解できるだろう。(最近では、東京12チャンネルによく出演され、啓蒙活動に取り組まれているようだ)

 さて、自己啓発本を読むのを嗜みとしている日本人は、相当の数に昇るのではなかろうか。福沢諭吉の『学問のすゝめ』(初版1872年)が300万部(当時の日本人の人口比で、十人に一人に当たる)の大ベストセラーになって以来、自己啓発本は、我が国において確固たる地位を築いた。幸福論や人生論の類、暮しの秩序と平穏を説く生活本の類、ダイエットや筋力トレーニングなどの健康本の類も、「自己啓発」という巨大な範疇に含まれるだろう。というのも、日本人には、「自己」の概念も、「啓発」の思想も輸入された西洋諸国の文化の一つであり続けているからだ。何時まで経っても新鮮さを失わないのは、自己啓発という「思想の輸入性」であると断言しよう。

 「思想の輸入性」とは、今私が考案した造語だが、あまり上手な表現ではない。こういう時は英語で表現する方がよく真意が伝わる。つまり、concept's  portabilityである。conceptとは概念、観念、抽象的考えのことを指すが、元は、conceive「取り入れる・心に抱く」を意味する動詞の変容である。portabilityとは、port「港」にability「能力」がくっついて、「携帯できること・軽便さ」を表す。要は、「思想の輸入性」という造語を以て、持ち運び可能な抽象的考えのことを簡便に言いたいだけである。そして、自己啓発という一大ジャンルには、この「思想の輸入性」の体現のような気配があるのである。

 自己啓発本の編集の様子を是非とも観察してみたいが、恐らくは、作家の意向が相当程度強いのではないかと思われる。というのは、日本語の文章を書くのが好きで、日本語の語彙や文法や語法に対する警戒心を持っている編集者ならば、自己啓発作家の書く言葉遣いに対して、怒りとは言わないまでも相当の違和感、嫌悪感を抱かずにはおれないだろうと推察されるからである。それほどまでに、自己啓発本は、日本語として体を成していない。下手な詩集かと思われるくらいに段落分けを頻繁にする。一行だけの段落が大量に詰まっている。意味段落と形式段落の区別がなくなる。章と章の繋ぎ目が曖昧になる。冗長になり、同じ内容の繰り返しになる。言葉遣いが乱暴になり、語彙が貧弱になる。後半などはほとんどやけくそ気味になる。語るための語彙が無ければ辞書を引くなり、類語辞典を見るなりすればいいのに、そういう努力は惜しむようである。中身の無い様な風に感じ取られてしまう要因は、よい文章を書こうという気分の喪失が頻繁に起きているからである。自己啓発本的文体という想定が存在するとすれば、段落概念の喪失ということに尽きる。

 しかし、編集者や読者の心配を物ともせず、自己啓発本ライター達は己の言葉に己が酔いしれるが如く言葉を延々と吐き続ける。これは本と呼べるのか、ただの空想、呟き、思い付きを並べただけじゃないか、と編集者や大半の読者は思って居るに違いないのである。が、大変重大な事に、自己啓発本を書く連中は一大成功者なのである。残念ながら、社会的に成功してしまっている。社会的成功という紛れもない事実が彼ら彼女らに、日本語の表現上の失敗を覆い隠してしまっている。もっともこれは、言葉遣いと社会的成功に絶対的関係性がないことの証左でもある。いくら日本語の語彙が貧弱であろうが、誇張的、欺瞞的、詐欺的な言葉遣いをしようが、文法も語法も表記法も知らなかろうが、というか全編語りおろしで、文字起こしから脱稿まで全て他人(編集者・校正者・装幀家)任せにしようが、彼彼女らの社会的成功には、微塵も影響しないのである。少し言い過ぎだろうか。しかし、どうしても私には、自己啓発本の文章が、漫画のように見えて仕方ないのだ。文章ではなく、もっと別の何かにしか見えてこない。

 最も文章らしい文章とは、例えば、行政機関の通知書、法律用語、裁判の判決文などだ。途方もなく長く、濃密で、意味しかない。無駄が一切禁じられた世界の文章だ。読み手への配慮がない。読み手も書き手も、この禁じられた世界の住人であり、一定の規則と定義と慣習に従わねば生きて行けない。文章が文書に変わるとき、手紙が通達に変わるとき、論説文が説明書に変わるとき、言葉はことばでなくなり、定義と用語と用法と規則の従者に変質変容する。文書や通達や説明書の言葉遣いに、或る種のエキゾチシズムを鋭敏に感じ取り、その言葉遣いを文学にまで高めた作家と言えば、云わずと知れたジェイムズ・ジョイスだった。ジョイス文学に通底するのが「ことば」感覚ならば、行政機関の言語世界は「用語」感覚だろう。では、自己啓発本の言語感覚はどのような位置づけを与えるべきなのだろうか。

 位置づけとは、縦横高さの三次元だけでなく、自覚できない位接近した手前と見据えることの出来ない程の奥行きもあり、時間による質量の変化も含んだ行為であるのは、まず言っておかねばならない。意味も範疇も価値も、あらゆる総体を位置づけることは人間にはきっと不可能なのだろう。なぜこんな訳の分からない話をしているかと言えば、自己啓発本が、自己啓発であるという理由だけで、蔑まれるのは相応しくないと感じるからである。繰り返すが、言葉遣いと社会的成功にはまったく相関がない。道路に落ちているバナナの皮の数と、歩行者が道で転ぶ回数と同じくらい相関が「ある」と言ってもいい。もし、言葉遣いが丁寧で素晴らしい人が社会的に成功していると思うのならば、それはきっと、認識の誤操作なのだ。認識は嘘をつく。脳機能学者がよく言うことだ。こう言っても分かりやすいかも知れない。言葉は擬装する。価値のある言葉だと信じたものが、後々になって虚偽に塗れていた。真理の金言だと確信したものが、後世になって覆された。大義だと信じていたことが、実は空語に過ぎなかった。そのようであるとするのならば、自己啓発本の言葉遣いが誤りに満ち満ちていようとも、私の認識が嘘をついている可能性は決して否定できない。神は細部に宿るという建築家の格言は、文芸批評に於いても正しいと思えてならない。

 また次項は明日に譲り、今日はここまでとしたい。