Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

文章を上手に書かないうちは死ねない

 文章を上手に、味わい深く、印象的に書かないうちは死ねないと思う。文章を上手くなりたいと思うのは、人間の自然な感情なんだろうか。文章を上手に書こうという気持ちは、思考を正確に伝いたいという思いから生じるのだろう。思いは言葉にせねばならない。言葉は伝えねばならない。しかし、それは世界の誰かというよりも、日本の何処かに住む貴方というよりも、やはり自分自身の為なんだろうと思えて仕方ない。何のために書くか、何のために言葉にして残すのか。全ての日記が、死後、そのまま遺言書になるように、全ての言葉は告白であり、果たせなかった願いに他ならない。叶わないと知りつつ書くのである。書いた後になって自覚することは、書いてホッとしたという安堵と、書いたからといって何か変わる訳ではないという当たり前すぎる認識である。

 歌を歌う人は、文章を書く人のように、上手に歌いたいと願うだろう。たとえ誰かに聞かせる必要が無くても、練習を止めないと思う。歌声とは音楽である以前に、音と声の分離を無理矢理重ねようとする思いから発生する。楽器の演奏など出来なくても、誰しも歌手にはなれるのだ。here & now「イマ・ココ」の感覚を忘れなければ、誰でも歌手だ。歌えば歌手だ。

 描けば絵描き、書けば作家、踊れば踊り子、歌えば歌手、演じれば役者、戯ければ道化師、笑えば観客になるように、誰もが芸術家のあらゆる感性と技術と観察眼を持っている。これは規格化され得ない極めて人間的な性質である。「子供は誰でも芸術家だ。問題は大人に為っても芸術家でいられるかどうかだ」とはパブロ・ピカソの名言として知られているが、文字通り受け取っていい真理のような気がする。

 

 私はもう半分、死んでいるのかも知れない。上手に文章を書こうと思う気持ちと、今すぐここで死んでしまい、煙のように四方に拡散したいという気持ちと、二つが入り混じる。書きたい、でも死にたい、とは、即ち、書き上げた瞬間に死にたい、ということなんだと、書き終わってから気づいた。書き上げた後に死んでもいい、とは、やはり、遺書だ。遺書を書かずに死ねない。遺書を書こう。このブログは毎日遺書を書いているようなものだ。毎日死ぬ用意をしているようなものだ。出来るだけ正確に言葉を紡ぐことは、この瞬間、この場に対する真剣さから由来する。誰も彼も、私の元から去ってしまったのだ。言葉しか残されていない。言葉至上主義。これが言葉の最も輝く時なのだ。死に際の一言にすべてが凝縮される。しかし、それは肉体の死ではなく、精神の死、思索の死である。思索が死にかけている時、最も言葉が輝くのは、自我が最も薄らいで、「本当の世界」と接近しているからだ。紡いでも紡いでも、奥が進行する。手前に迫り出して来る。この切迫感!この遠近感!こういうグググっと迫る感じが、最も言葉を美しく純化させる瞬間だ。

 死のうと思う時、私はナイフを持たずに鉛筆を握ろうと思う。