Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

文の美、その探求

 文章の美について考える時の心境とは、喩えるならば、北の地で渡り鳥が舞い降りる瞬間を今か今かと凍えながら待ち構えるカメラマンのような心境であるのだろう。美とは瞬間である。気が付くか付かぬかの境で美は立ち現れ、美は立ち消え、その後の行方は誰も知らないのである。美とは、観察する対象である時間よりも、思い慕われる記憶としての時間の方が長い。美とは、年に一度あるかないか、だから尊いのであって、日常の美とは矛盾である。(それは矛盾であるが、存在しないことを否定しない。生活に美はあるが、その生活は恐らく他人の生活であろう。己の生活に美を発見するならば、それは己を他人のように観察する時だろう)

 さて、美とは一瞬であるといったが、その効き目は長いのである。一瞬の美に魅了されてしまって、「それ」ともう一度出会うために、その後の人生の全てを投げ打ってしまい、会えないまま長い年月が経ち、二度と手に入らない過去の薄れ行く記憶の断片だけを頼りに生きる人が多くいる。「それ」とは、特定の誰かであり、特定の生き物であり、特定の無生物であり、特定の事実である。あれこれと完全に区別が可能で、「それ」と認識するための条件が全て自分自身に整っていると分かるので、何年、何十年経っても、「それ」を追い続けることが出来るのだ。

 八木博さんのニホンオオカミを追いかける執念を想起する。私はたまたま彼のことをテレビ番組で知ったが、今でも忘れられないのは、彼の言葉だ。「他でもない私の前に現れたんだから」。そうなのだ。他の誰でもない私の前に必然的に現れてくれたのだから、人生を賭けてでも探し出し、また出会わねばならない。これは偶然の一致ではなく、必然的な結びつきなのだ。あの美ともう一度出会い直すことが、彼の使命となったのだ。天啓の如く与えられた仕事なのだ。私は、彼の眼の真剣さと一瞬垣間見る妖しさを、スクリーン越しに見る。

 

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 文の美も、八木さんのように、追い求めるものであると感じる。この本の中に必ずや在るはずだと信じて、一行一句に目を走らせる。自分の部屋に積まれた書籍の山のその一冊一冊に、砂金のように細かく微量ではあるが大変価値のある言葉、まさに金言であるその言葉が沢山詰まっているように思われる。言葉そのものが金なのではない。屑のような言葉も沢山ある。だが、言葉はある特定の文脈において金に化けるだ。「それ」が忘れられず人は文学を志すのだろう。