Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

残日録(0)

 ついにこの投稿で、長かった残日録日記を終えることになる。感慨深い。果てしなく長い道程だった。だがしかし、本当の旅の終わりは論文を提出した時だ。それまではもう少し続く。

 現在の状況は、カバー、日本語要旨、イントロダクション、第一章、第二章の三分の一までが完成している。残すは、第二章の三分の二(翻訳のみ)、第三章(翻訳のみ)、サマリー(日本語の骨子は既に完成済み)、そして参考文献欄だけである。予想としては、明日の正午までに、第三章までが終わり、夕方6時までにサマリーが終わり、翌朝の出発までに、できる限り参考文献欄を充実させて、印刷、製本で終了である。さんとかなりそうだ。良かった。 

 見通しが立ったので少し横になろう。

 今、深夜の十二時半である。眠気が去ってしまった。だが、体の重さは取れない。やはり眠るしかないか。朝まで眠ってしまって、それからやろうか。それか、今からやって、少しでも進めたほうがいいのか。問題は、残り30時間の長きに渡って闘う必要があるということだ。道のりは長い。

 嗚呼、もうあと18時間でこの家を出なければならない。支度をしないと行けない。残された時間とは、働くべき時間だ。なのに体が動こうとしない。畜生。畜生。頑張れ。もうそれしか言葉はない。頑張れ。それでも頑張れ。立ち上がれ。目を覚ませ。本気になれ。君ならできる。君は素晴らしい。愛すべき人間だ。勇気ある人だ。君はできる。頑張れ。やってみよう。そうだ。頑張れ。

 少し外を歩いてきた。自分は出来ると言い聞かせながら。そうだ、僕はできる。去年学んだこと、それは、恐怖の構造である。疑心暗鬼が恐怖の元凶なのだった。疑心暗鬼が習慣化し、目に見えるようになったものが、自暴自棄である。これが更に悪化すれば、失望に変化し、やがては絶望に至る。少なくともこの理論が私に当て嵌まるのならば、私は、絶望の芽を摘まねばならない。疑心を取り除かねばならない。それには一つの方法ではなく、より多様で複雑で、循環型で相補的な関係を持った、強靭な方法論も同時に保持せねばならない。仏教の世界解釈に始まり、キリスト教原罪思想イスラームの戒律への姿勢、エマーソンやブレイクなどの超越的観念論、ギリシャの哲学者、儒教道教の諭す政治論、ヴェイユやホッファーなどの在野研究者の生き方、父の教え、母の愛、友や師の交わり、様々なことを教えてくれる自然への愛、言葉世界と表象世界の交わり、想像も及ばない素晴らしいもの、色、形。私は自分の疑心を捨て去るために、唯一の教えだけを利用したくはないのだ。まだまだ悟り切るには早すぎる。もっと足掻いていい。そうだ、己を試すんだ。

 覚悟だ。そうだ、集中だ。血を掻き立てろ。心を平穏に保て。そうだ。それだ。

 嗚呼、俺はこの痛みを愛す。そうだ、この痛みは俺を俺たらしめる。もっと集中しよう。時間など気にするな。論文と一体となれ。論文は待ってくれていたんだ。お前が来るのを。お前は遂に来た。時間ギリギリになった。だが、論文は待っていてくれた。有り難い。もっと頑張れ。やれる。できる。

 プリンターの確認ができた。よし、これで何時でも印刷・製本が出来る。カバーも綴じ紐も買ってある。三部作成するのに、2時間はかかるだろう。家を出る為の用意には、一時間は掛かる。という事は、朝の三時までに、参考文献欄の完了が求められている。残り四時間で、第三章までの翻訳を終わらせ、午後九時までにサマリーを片付け、朝三時までに参考文献欄を仕上げる。そうか、これでいける。いける。分量は十分足りている。大丈夫だ。やれる。頑張ろう。

 

 嗚呼、終わらない。終わらない。だが、未だ分からない。そうだ、分からないことを断言してはならない。自分の力を疑ってはならない。これが私の全てだ。私の言葉、言葉を操る能力、それが私の持つ数少ない能力のうちの一つなのだ。分かりやす言葉を求めよ。衒学に陥らず、ラップ音楽など名前すら知らないような読者に語り掛けるのだ。そうだ。私は、論文という劇場の支配人だ。観客を楽しませ、面白がらせ、興味を持たせ、効果的に演出する。そうだ。私はその資質も資格も必要もあるのだ。

 確かに、準備の時間はたっぷりとあった。だが、主に精神の不安定に由って、また体の不調に由って、またはその両方に由って、仕事に取り掛かるまでに相当のロスを費やした。殆ど一年間の間、私は、自分の言葉を追い求めた。それは功を奏した。このように、私は今、自分の思いをより正確に、より客観的に、より穏やかに、表すことができるようになった。更に大切な事は、私は自分を認めることは、他人と比べることでないことを知った。他人と比べるべきものと、そうでない、絶対的に信じなければならないことがあることを知ったのだ。たとえば、私は、自己愛というものについて、比較するべきではないことを知った。自己肯定感は、当人にとってとても大切であることを知った。たとえどれだけ些細な根拠に支えられていようとも、その人間にとっては、自己肯定感の根源となっている限りに於いて、その事実なり、感覚なりは、何人も侵害すべきではない。そういうことを私は学んだのだ。

 Everybody needs a home. という英語の意味が、私には今漸く分かったのだ。

 だから、今、修士論文の作成が当初の計画に沿っていないことは、嘆くべきことではない。同時に二つのことを獲得することは相当に難しい。人生について考えることと、修士論文を進めることは、明らかに性質を異にしている仕事である。前者については、答えもなければ、締め切りもなく、提出する相手は自分自身である。その暫定的な答えを精査するのも、同様に、自分自身である。だから、この問いは、既に円環構造を持っている。一方修士論文は、締め切りがあり、求められる形式があり、提出する相手もあり、その内容と形式を精査する機関もあり、出来不出来に応じて評価がなされ、合格の場合は学位を貰え、そうでない場合は貰えない、というシナリオが用意されている。このシナリオの何れかを選ぶ権利の一切は私個人に委託されているように見えるが、実際の所、ほとんど全員がこれに合格しているのである。だから、これは社会的な要請なのだ。私はこれに合格することが期待されている。これは禅問答ではない。これはテストなのだ。だから、これは先に述べたような円環構造を持っているのではなく、より直線的なものだ。駅伝のようなものかもしれない。襷を繋がねばならない。誰に?それは将来の自分にだ。この学位を持って社会に出て一生懸命頑張りなさい、と現在の自分が将来の自分へエールを送っているのである。だがしかし、この襷を落としても、未来の自分は走っていかねばならない。孤独を引き連れて、走っていかねばならない。もしくは、後悔と自責の念を引き連れて。だが、このレースの終着点は、誰にも分からない。社会に出ても、また誰かに襷を渡される。そして、その襷をもって走り続けていくのだろう。嗚呼、私の襷は今何処に、誰によって運ばれているのだろうか。

 

 早めにお風呂に入って身を浄める。体を洗いながら考えていた。私の醜さについて、体に締りがなく、ぶよぶよであり、欺瞞的な、不誠実な雰囲気を醸していること、体重が一向に減らないこと、食事・運動・睡眠の基本的な生活習慣について見直すべきことなどを思案していた。そうか、私は自分の身体を愛せていないんだ。これは相当に問題である。自己愛とは、全く精神的な部分と同時に、肉体に関する事柄も多く含まれている。自分の顔が嫌いな人は、不幸なことに、自分の精神まで薄汚いように感じてしまう。自分の肉体は、或る程度改善と改造が可能であるが故に、その計画を実行していない己の精神の弱さが反映されているように感じるのだろう。

 精神と肉体が絶えず一致していると考えるのは、認知の誤りである。または、絶対的な善や究極的な美が努力次第で人間に備わり得ると考えるのは、少なくとも私の感性から外れている。人間の精神は瞬間瞬間に生成消滅していると考える方が私は好きである。人体を構成する細胞は約60兆個あると謂われるが、この膨大な量の細胞たちも、絶えず軽やかに、ダイナミックに、雲の流れるような速度で運動し続けている。福岡伸一さんの『生物と無生物の間』という本を思い出す。動的平衡論というやつだ。仮に福岡さんの意見を採用すれば、私の体内は今この瞬間にも猛烈な速度で生化学的変化を起こしており、決して自覚は出来ないものの、連鎖反応を引き起こし、眼や耳や指から伝わる信号を捉え、処理し、出力しているのだろう。しかもこの働きは機械的なオンとオフのデジタル処理ではなく、相補的な作用が働く、円環構造らしいのだ。(また折に触れ読み返してみよう)要するに、私の認識は、絶対性など持ち様がなく、全ての判断は曖昧な根拠に基づき、視界はぼやけていて、耳に入る音は不明瞭で、一度決めてもすぐにもう一人の自分が反論を加えてくるような、所謂「天の邪鬼」な性質を帯びているのだ。

 この認識の在り様は、私を、不思議なことに、安心させる。成功も失敗も、本質的には、存在しないからだ。結果的に私は失敗を恐れなくなり、成功を羨むこともなくなった。自信を持つ事に躊躇いがなくなった。自己批判と自己卑下の区別がつくようになった。それは、精神衛生上、とても良いことだった。肉体について、私は考えを改める。己の肉体に美醜の区別をつけることは、本質的に、認識の誤りが含まれている。今日美しいと思った顔、それは鏡に映った顔であるが、その鏡像は己の眼に入る一瞬の間に既に時間の経過を経ている。また、己の眼に映し出されたそれを、ありのままに把握することが極めて困難か、事実上不可能であるのは、そこに自己愛が入り込むからである。気分のいいときは自分の顔が格好良く見え、落ち込んでいる時は反対に格好悪く見えるものだ。実際は、気分によって顔の造形が変化することなど在り得ないが、その印象は大いに変化する。つまり、気分を抑制することができず、自己愛や自己嫌悪から解放されることがないままに、鏡に映った己の顔(または全身)を、一定の基準に照らして判断することなど、現実的でないという事だ。

 今の議論は認識論における枝葉末節かもしれない。だがしかし、自分を醜いと思い悩む私にとっては、醜いのではなく、また美しいのでもないと論を張るための大切な根拠である。もっと言えば、自己愛や自己嫌悪も、同様に、移ろいやすい気分にほかならない。だから、この議論の最終目的地は、自己愛と自己嫌悪、自信と失望、自暴自棄と疑心暗鬼、そうした様々な観念から解き放たれ、穏やかに暮し、静かに生きて、清潔な身体をもって、精神を集中することができる時間を持ち、それを保ち、その空間を守ることである。悟りの境地である。または救いの境地である。孤独を孤独と感じない境地である。今、その訓練をしているのだ。これは練習である。死ぬ練習だ。善く生きることを考えるとは、善く死ぬことの練習である。たしかプラトンがそんなことを言っていた気がする。哲学は死ぬ練習である。その通りである。

 

 皿を洗った。なぜだか知らないが、台所に立って皿を洗いたくなった。気分が落ち着くのが分る。珈琲を淹れ直した。気分が整うのを感じる。無上の喜びである。音楽を掛ける。気分が盛り上がる。そうだ。そうだ。言葉から始める。やろう、と自分に声掛けをする。頑張ろう、と一声かける。自分に自分が自分の言葉で促すのだ。それは私の生きる知恵である。失敗も成功もない。あるのは「自分」という感覚だけだ。この絶対的な感覚を忘れて、何かを為すことは難しい。私は私である。私は美しくもなく、善くもなく、また醜くもなく、悪くもない。一切の判断の中間に属している。それが中庸という精神の在り様だ。バランスが取れている。心と体が上手く調合している状態だ。有難いことだ。よし、やって見よう。頑張って見よう。今、2月11日午後4時45分である。この家を出発するまで、残り13時間ある。有難い。あと13時間もある。十分だ。

 

 覚悟とは理論と信念が一体化した時に生まれる精神の跳躍である。(小林秀雄

 

 まさにこの通りである。どんな困難に見える状況においても、理論と方法が必要であり、それを支えるのは確固たる信念だ。両方があって始めて覚悟というものが生まれるのだ。覚悟があればガタガタせずに、腰を落ち着けて現実と安心して格闘できる。拡大解釈すれば、これは危機的状況に限らず、日々の心の持ち方にも繋がる。

 今私は、危機的状況に陥っているように見える。だが、いつもものの見方は一様ではない。俯瞰してみよう。

 今Chapter1を添削してもらっている。Chapter2と3は、既に英語に直った、こちらは時間的制約により修正を頼めない。それは諦める外ないが、必ずしも必要とされていない。こちらの修正は、まず装丁を直すこと、つまり文章と文章の間に半角スペースを二つ空けることを統一させること。次に、固有名詞の統一である。こちらは置換機能を利用して手早く行う。次に段落分けを長さと内容に応じてつける。英語は主語と動詞で決まる。全文に目を通し、主語と動詞の一致しているかを確認する。次に時制のチェックだ。その後、名詞と冠詞の繋がりを見る。このようにして、一つの視点を持って何度も校正をかけていく。三時間程度で終えたい。

 その後サマリーを書いて、翻訳する。こちらはニ時間程度を予定している。

 問題は参考文献だ。こちらはどのように処理するべきか。列挙の仕方は知っているが、一度確認したほうがいいだろう。特に音楽の歌詞の引用などは難しい。画像についても、一言附しておかねばならない。参考文献は、一言でも引用したら書いておかねば盗用になる。こちらは三時間ほどかかるだろう。

 その後、目次やカバーの修正、印刷、製本に合計一時間かかる。

 全てを合計すれば、九時間から十時間は見越しておく。

 現在午後七時である。家を出る用意を五時半までに終えたい。残り、ちょうど十時間。ぎりぎり間に合う。これで行こう。

 

 まだ少し怯えている。もし出来なかったらどうしようと考えている。もしあれが起こったら、これが起こったらどうしようと、先取り不安を抱えている。そうなんだ。もともと、こんなギリギリに提出するつもりはなかった。もっと早めに動くべきだったのだ。俺っていつもこうだよなあ。初動が遅すぎる。体も心も弱っていて踏ん張りが効かない。ああすればよかった、とか何度思ったことか。後悔と自責が完全に習慣になってしまっている。そうか、そうだったのか。これも自己肯定感を低めている原因の一つだ。過ぎ去ったことにクヨクヨするのは、得るところが少なく、失うところが大きい。教訓について考えるよりも、眼の前の課題に取り組んだほうが、現実世界では大切なのだ。仕事が片付いた後、即ち、次の仕事に取り掛かる直前に、教訓なり、反省なり、自戒なりを考えればいいのであって、反省が普遍的な価値を持つわけではない。こういうことも、この修論で学んだことだ。戦闘中に反省するな。これは命懸けの闘いだ。大切な仕事だ。私の使命だ。反省は己のためにするものだ。今はこの仕事の為に時間と頭を使え。やるべき事をやるべき様にやれ。単純明快だ。

 

 お腹が痛くなってきた。体をケアしよう。目を労る。指先でつまんで揉みほぐす。耳を軽く引っ張る。ほっぺたをペチペチと叩いてみる。髪の毛を拳で掴んで少し強めに引っ張ってみる。頭皮全体を手の平で撫でてやる。体全体を撫でる。よくやってくれたと褒めながら、丁寧に、できるだけ優しく、労りながら撫でる。指先から、二の腕、首筋、胸、お腹、太腿、脹脛、足の爪先まで、撫でていく。体に感謝する。よくぞ今まで耐えてくれた。私の心について来てくれた。有り難う。本当にこの体に産まれてよかった。体に愛情を注ぐ。タッピングというセルフ・ケアがあるそうだが、恐らくこれに近いのだろう。方法など今はどうだっていい。この体に愛を注ぐ。それだけでいいと思う。 

 私の体、ありがとう。君は本当に美しく、素敵だ。これまでよく僕に付いてきてくれた。ありがとう。