Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

人情派になりたい

 人間関係という言葉は、同語反復のような響きがある。人間とはその存在自体が相互依存関係の上に成り立っている。人間に関係するとはどういう事態だろうか。「関係」に関係するとは、頭では理解できるが、実態としてイマイチ把握しかねる。

 人間は一人では生きていけないと言われる。果たしてそうだろう。特に、現代のような社会構造において、「イチ抜けた!」と言って抜け駆けすることは出来ない。現代日本社会を営むにおいて、労働と納税と教育は国民の三大義務とも呼ばれている。きっと正しい考え方なんだろうと思う。

 問題は、労働も納税も教育もしている模範的な国民同士が、極めて些細な馬鹿馬鹿しい事について意見が食い違い、啀み合い、党派を形成し、囲い込んだり爪弾きにしたりしながら、戦闘状態に没入し抜け出せなくなっているこの現実である。私の知る限り、人間関係で上手く行かずに、日々激しい口論をして互いを傷つけ合った為に完全に疎遠になってしまったり、または、内心憤怒が沸き立ちながらも爆発寸前のところで耐えている人が沢山居る。私もその中の一人であるのは言うまでもない。どちらも取り立てて悪人ではない。少なからぬ友人を持ち、家庭を愛し、豊かな趣味を持ち、健康を維持し、なにより与えられた仕事を一生懸命にこなそうとしている。映画のような「全員悪人」とか「善人対悪人」とか「孤独のヒーロー対多数の悪人」のような図式は、現実ではまずあり得ない。みんなそこそこ善人であり、そこそこの悪人であり、そこそこの美的感覚を持ち、そこそこの俗物根性を持っている。似た者同士であるからこそ、小さな差異が大きな意味に転じてしまうのだろうか。

 人間関係について考えることは、きっと不毛である。歴史(人類史や科学史や古典など)ですら、人間関係についての最終的かつ不可逆的な回答を提出できていない。宗教が価値観を立証してくれるような期待も、全体の機運としては相当に低いと思われる。特に出版業界を始めとするメディアの世界で、虚無主義者やアナキストが跋扈するのを見るにつけ、どんな立派な価値観や理念や信念を提出したところで、個人主義相対主義や文脈主義の前には、広く共有され得ないんだなあと落胆し、沈黙せざるを得ない時もしばしばある。

 人間関係という言葉の響きが好きではないことは先に述べた通りだ。人間関係という言葉の翻訳語の調子、中性的なイメージは、現実世界に当て嵌まらない。現実の人間関係とは、生暖かく、湿っぽく、艶っぽく、刺々しく、絡みつく様で、時におどろおどろしくもあり、即ち生理的である。別れ際のカップルが「冷め切って」おり、新婚の夫婦が「アツアツ」であるのは、言葉のレトリック以上に、体感としてそう感じるからだろうと思われる。私は、そのような体感温度を感じられる言葉として、「人間関係」よりも「人情」という古臭くも懐かしい言葉を選びたい。

 嘗て、藤田まことさん主演のドラマ『はぐれ刑事純情派』という刑事モノがあったが、私はなんとなくこのドラマが好きで、たまに夕方に家に居る時など、テレビの前に一人座してぼんやり観ていた記憶がある。カーチェイスや銃撃戦がある訳でもない。ストーリーは事件の背後の人間関係に焦点が当てられ、淡々と、少しずつ、確実に核心へと迫って行く。被疑者と被害者を結びつけるような第三者が浮かび上がる。登場人物の誰もが不完全で、身勝手で、野心に溢れ、人間的弱さを抱え、そこに偶然の作用が働いた結果、悲しい事件が起こったことが分かる。藤田さんの落ち着いた語り口で、事件の構造が語り下ろされ、事件は終局する。私は、そんなドラマを観ながら、『人情派』というのはなかなか味わい深いものだと感心していた。

 きっと私は人情派になりたいのだ。言葉に落とし込んで、語り下ろしたいのだ。曖昧さや戸惑いや迷いを残しつつ、悲哀と諧謔を交えながら、言葉を使って人間模様を描きたいのだ。しかも、フィクションの世界ではなく現実の世界で。小説やテレビドラマではなく、現場で、職場で、家庭で。相当の言語運用能力が必要であるのは間違いない。恐らくこれ以外にも他者を鋭敏に察知する能力や、事態の成行きを予見する力や戦略的思考力なども必要になるだろう。そうした言葉や論理の力の土台になるのはなんと言っても道徳心である。人情派とは道徳漢のことである。

 私は、道徳を重んじたいのだと思う。

 憎み合う者同士に於いて、感情を押し殺した議論など出来る筈もなく、何の解決にも繫がらない。憎しみが憎しみを呼ぶというのは、信じていいことだ。真実だと思う。かと言って、憎しみや怒りの情念が生じること自体にまで善悪を判断することは不可能に近いだろう。怒るな、憎むな、と己に命じても、心は持ち主の意に背いて勝手に動き出し、騒ぎ出し、拳が握られ、ワナワナと震え始める。声が上ずり、眉間に皺が寄り、髪が逆立つ。それは、理性が抑制する以前に生じる生理的な反応である。怒っている間は、自然に任せて怒ればいいと思う。誰もいない河原に行って滅茶苦茶になるか、自分の部屋に籠もるか、車に入って叫ぶか、いずれにせよ孤独になる方がよい。その情動は藝術に昇華するかもしれない可能性すら秘めている。

 怒りや憎しみを排すことを先ず心掛けない限りには、人情派にはなれない。まずはそこからだ。